法政大学国際文化学部SA中国第五期生

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南京についての独断と偏見による考察 (Reporter/だーよう)

*注意:この文章はタイトルにあるとおり、独断と偏見が多分に混じっています。大人な方は、世の中にはこんな奴もいるとお流しください。意見や感想は受け付けておりますが、あくまでレポートの一環として書いているので直接ご返答できる事も無いと思われますが意見は意見として受けておりますので苦情その他は管理人であるイシイ様までどうぞ。

 さる十一月の某日に一泊二日の予定で我々法政大学の面々は南京へ行ってきた。当初参加する気はなかったが後学のため参加することにした。一人で行くことも考えたが、南京の事前情報と自分の性格から察するに何らかのトラブルを犯す可能性が高かったため、捨て駒...もとい仲裁をしてくれるであろう同学と共に行くことにした。

 当初、最も懸念をしたのはやはり「反日感情」である。今まで実際に行ったことがなかった自分は南京の情勢を伝聞でしか知ることができなかったが、総合してみるにやはり日本人にとってはあまり居心地がよい場所とは言えないらしい。いわく「日系企業は当然のごとく少ない」「中国人を馬鹿にする発言をした子供がリンチにあった」等、どこまで真実なのかがよくわからない情報(後者は露骨に胡散臭いが)が錯綜している。一つ言えたことは日本人にとっては悪いうわさばかりだったことか。この様な地で日本人が観光気分で騒げばどうなるかを見てみたっかたが、意に反して今回は皆総じて控えめだった。「南京」という名が日本人を萎縮させるのだろうか。

 南京の観光地紹介などは他の人がやってくれると信じ、今回はこのまま個人の戯言を書き続けたいと思う。

 実際に南京に到着してみて感じることは「思ったほどではない」ということか。事前の期待...ではなく気負いが大きすぎたためか拍子抜けしてしまう。影でこそこそ言ってるのは感じるが、面と向かって喧嘩を売られることはなかったし、夜一人でふらふら歩きながら日本の歌を口ずさんでみても誰も見向きもしなかった。単に気づいていないのか、日本人なぞどうでもいいのかは残念ながら分からないが。これなら西安の方が露骨だった気がする。同じ程度の滞在だが、「小日本」(日本や日本人に対する蔑称)と呼ばれたのは西安では4回、今回の南京では1回だった。西安では近年暴動が起きたが、やはり時というものは何かを変えるのだろうか。

 そして、南京に来たからには当然「虐殺記念館」(正式名称;侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館)に行く。今回の旅行の肝と言っても過言ではなかろう。この文章では「南京大虐殺」についての論議は話が終わらなくなるし、脱線が著しくなると思われるので避けることにする。今回触れるのは旅行記らしく、この「記念館」自体についてである。

 この記念館は「多くの人に真実を知ってもらうため」という名目で入場料金は無料である。中に入れば膨大な数の資料が展示され、日本軍がいかにして横暴の限りを尽くしたかを事細かに説明している。ここではその詳細には触れずにまず記念館にいる人間について述べる。

 当日いた日本人はおそらく我々だけだと思われる。その他、少数の欧米人と多数の中国人が見学をしていた。まずは欧米人だが、明らかに他人事といった感があった。館内では悲痛な顔をしているが一歩外に出ればどこ吹く風。確かに彼らにとってまさしく他人事だろう、観光気分であったとしてもしかたあるまい。(そういう問題ではないかもしれないが)日本人の顔は悲痛という言葉がよく似合っている。それが本心からなのか演技なのか、はたまた寒さのせいなのかは神ならぬ身では見抜けないが、この場で笑顔を見せることは犯罪であるかのような空気が流れている。そして、肝心の中国人は....マナーが悪い。携帯で話している者がいる、何かを食べている者もいる。これを文化の違いという言葉で片付けるのは簡単なのだが、外で笑顔で記念撮影をしているのを見るとやるせなさがこみあげてくる。彼らにとってここは一体何なのであろうか?

 「不忘歴史 面向未来 和平的誓言」(日本語漢字バージョン)直訳すると「歴史を忘れず、未来へ向かって、平和を誓言をする」ってとこだろうか。これは記念館に掲げられているこの記念館のコンセプトを示そうとしている言葉なのだが、本当にあの記念館はその言葉を体現しているだろうか?

 歴史を知るならば資料だけを最も原文に近い形で提示すればいい、必要以上に残酷さを強調するような絵やマネキンは不要であろう。元となる写真や証言があるのならそれを展示すればよく、なければ必要ない。「歴史を忘れず」というのは必要以上に視覚効果に頼った展示物を展開することではなく、起きた出来事を真実として受け止めるということではないだろうか。そしてあの記念館に行った人間は「未来に向かう」ことができるであろうか、加害者なら反省や後悔をする人間はいるかもしれない、被害者ならまず悲しみと怒りを覚えるだろう。それは大事な感情の一つであろうが前向きな考えとは言いがたく、そこから更に一歩考えを進めてこそ未来に向かうことができる。戦争の被害を訴えようとするあまり、最も大事であるそこからなにを生み出すかにあまり触れられていなかったのは残念である。「和平的誓言」とはなんであろう。自分は見落としてしまったのだろうか、その誓言をした後に何が変わったかという大事な掲示物見つけられなかった。「謝罪と賠償を!」ばかりに目が...

 以上、乱筆乱文ですが自分の思ったことを率直に述べてみました。「南京大虐殺」に触れなかったのは逃げのような気もしますが、今回は文章の性質上ご勘弁を。この文章は大局観から書かれたものではなく、一個人の狭い視野から書かれています。ですから当然のごとく主観が多分に混じっています、ただ世の中にはこういう感じ方をする人間もいるということを記してみただけです。ある「こと」から何を読み取り、何を感じ、何を考えるかは人それぞれ。他人の意見はその手助けに過ぎないということをお忘れなく。

 最後に個人的な質問です。ある知人が「南京大虐殺記念館」→「南京大プロパガンダテーマパーク」と言い切ったんですが、皆さんはこの言葉から何を読み取り、感じ、考えますか?




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