法政大学国際文化学部SA中国第五期生

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黒龍江省・ハルピン/吉林省・長春「小林の東北横断奇幻旅程8日間」 (Reporter/しゃおりん)


10月1日(星期五)「夢と希望を胸に抱いて」
上海→ハルピン くもり

 今日はいよいよハルピンに出発だ。SA前からずっと行きたかったハルピン。その夢が今日やっと実現する。ハルピンに何があるのかはよくわからないが、その「ハルピン」という響きだけに誘われて行くことにしたのだ。昨晩のうちに早めに荷物の準備を済ませてサッカー場の下のリムジンバス乗り場まで行き、リムジンバスで浦東空港に向かった。空港に着いたのは12時頃で、飛行機の離陸時間の2時まであと2時間ある。心に余裕を持ってチェックインした。しかし次の瞬間目に飛び込んできた電光掲示板の二文字「延誤」(遅延)それは自分が乗る中国東方航空MU5607便だった。放送によると機材がまだ到着していないらしい。この日は濃霧が出ていて、他の飛行機も遅延しているようだった。霧は晴れる様子も無く、結局2時間遅れの午後4時に離陸した。飛行機は結構快適で、2時間半でハルピンに到着した。
 飛行場に着くとあたりは真っ暗で、外に出るととにかく寒いこと!持ってきたダウンコートを着込むとちょうどよい。しかしハルピン人は寒さに強いのか、自分ほど厚着をしている人を見かけない。周りから変な目でみられてちょっと恥ずかしかったがここは中国だ、気にしない!老外が一人ダウンコートを着ていても何ら不自然な点は無いだろう。バスに揺られること40分くらいでハルピン駅に到着し、予約していた宿にチェックインする。部屋はまぁまぁだが、ちょっと絨毯が汚れているのと、シャワーのお湯が弱いことが難点だ。外にレストランを探すがあまり無い。それと雰囲気がかなり悪い。客引きや娼婦がうようよしている。私は彼らを高速でスルーして清潔感のある東北料理屋に入り、東北料理に舌鼓を打ちつつ中国で最初に作られたというハルピンビールを美味しくいただく。酔った勢いでそのまま床に就いた。


10月2日(星期六)「頭の中でずっとt.A.T.uが流れてます」
ハルピン 晴れのちくもり

 今日は早めに起きて、バスに乗り1時間かけて731部隊の記念館に向かう。ここでは旧日本軍が行った人体実験の記録が生々しく展示している。旧日本軍が中国人を「マルタ」と称して行った数々の人体実験は、人間がやることとは思えないほど残酷なものであり、無理やり細菌入りの注射を打たれたり腹を切り開(以下R指定により省略)される中国人の人形が展示してあり、むかし旧日本軍が行った行為を改めて目の当たりにした。そこには自分以外に日本人と韓国人の団体ががそれぞれ日本語と韓国語で説明をガイドの説明を受けていて、真剣に聞いている様子だった。私はここを後にし、また1時間かけてホテルに戻った。
 少し休んでからハルピンの中心地である中央大街に向かった。ここはむかしロシアが支配していた地域で、現在でもロシア風の建築物が立ち並んでいる。そのなかでひときわ目立つのが聖ソフィア聖堂で、中央大街から少し離れたところに位置している。それは荘厳なただずまいで、見るものを感動させる。中に入るとそこは芸術博物館になっていて、ロシアの芸術品がたくさん展示してあり、中でも「最後の晩餐」の壁画はきれいだった。本当に今中国にいることをわすれてしまいそうだ。外出て、2元のソフトクリームを買ってみたがこれがなかなかの味で、もう一本追加で注文してしまった。それから中央大街沿いにロシアの建築物を見ながらぶらぶらと松花江の方向へと歩いていった。雰囲気は完全にロシアだ。だんだん気分がハイになってきて、頭の中でずっとt.A.T.uの「Not Gonna Get Us」がかかっている。するとちょうど私のリクエストにこたえるかのごとく有線放送でその曲が流れ始めた。最高の気分だ!そして辿り着いた松花江は広い川で、河原で凧揚げをしている人がいっぱいいて、今日は風が強いのでかなり高くまで上がっている。向こう側の太陽島に向かうロープウェイのゴンドラがゆらゆら揺れているほどだ。歩き疲れてだんだん寒くなってきたのでホテルに戻り、寝てしまった。
 電話のベルで起こされた。取ると、「マッサージはいかがですか」という内容の電話で、昨日の夜にもかかってきた。速攻で「不要」と言い電話を切った。こういうのは絶対にあっち系のマッサージだ。北方のホテルに宿泊すると、よくこのような内線電話がかかってくるから迷惑ったらありゃしない。これからは電話線を抜くことにしよう。
 夜に旅の計画を立てていて。人民元が残り500元しか無いことに気がついた。これでは残りの日数を乗り切れるかどうか不安なので、フロントに日本円を持っていく。しかしここでは両替はやってないらしい。明日銀行に行って両替しよう。


10月3日(星期天)「安西先生、人民元がありません(泣)」
ハルピン→長春 晴れ

 朝、銀行に両替しに行く。が、国慶節期間中は外貨の両替はできないとのこと。何軒か回ってみたが駄目だった。ハルピンは諦めて長春に行くことにする。ハルピンは始発駅なので切符の購入は容易だった。列車の中でこれからどうするか本気出して考えてみる。その時、3つの方法が浮かんだ。
@駅前とかにいる両替商に頼む方法。偽札をつかまされる危険があるが、必要なのは現金。背に腹は替えられない。
A長春市内でシティバンクのカードが使えるATMを探して人民元をおろす方法。
B持っているクレジットカードを使ってホテル代を支払い現金を浮かす方法。
自分の中での優先順位は@両替商AATMBクレジットカードだった。そして長春駅に到着し、駅前にたむろしているの怪しいオサーンたちにこっちから声をかけ、人民元の両替が可能かとうか聞くと、「どんな外貨だ?」と聞かれ、日本円だと答えると「ハァ?日本円?米ドルじゃきゃ駄目だ。それよりホテル決まったか?連れてってやる。5元でどうだ?」といつもの怪しさが炸裂しはじめたので、全部スルーしてバスに乗り人民広場に向かう。@の方法は失敗に終わった。
 バスを降りて、銀行を探す。もう夕方だったので早くしないと銀行が閉まってしまう。(ATMは24時間やっているが)何軒か回ったがやはりどこも駄目だった。ATMもシティバンクと提携しているものが無く、Aの方法もこれでは駄目みたいだ。だから最後に残ったBの方法を選択することにし、クレジットが使えるホテルを見つけたので疲れきった体でチェックインする。実はこのとき人生で初めてクレジットを使ったのだが、特に手間取ることはなかった。自分の部屋は10階で、部屋に入るとなにやら外からものすごい大音響で音楽が聞こえてくる。実はこのホテル長春一の繁華街である重慶路に面していたのだ。最初はうるさかったが、中国はどこに行ってもうるさいのですぐに慣れて、寝てしまった。
 仮眠して、目覚めたときにはもう夜だった。この旅では寝てばかりいる気がする。外に出て地下道を抜けてぶらぶらと重慶路を歩く。この通りはそんなに長くないのですぐに帰ってきた。すると、手ごろな値段な快餐(中華料理のファーストフード)を見つけたので、イカチャーハン(5元)を注文した。料理はすぐに来て、美味しく頂いた。ここは安くて美味しくて何でもあるのでお世話になりそうだ。それからスーパーに買い足しに行き、部屋に戻った。
 部屋ではずっとテレビを見ていた。どのチャンネルも国慶節特集だ。そんな中、抗日戦争のドラマが流れていたのでしばらく見ていた。本当に中国のテレビではこの手のドラマや映画が多く放映されている。日本の旗や軍服が目立つ。中国人が日本兵を演じ、「バカヤロ」「ミシミシ」と日本語のような言葉を発し、中国人に酷いことをする。日本人が出ているドラマもあった。複雑だ。21世紀になるというのにいまだにこのようなドラマや映画を流しているなんて。それはまるで反日感情を煽っているかのようであった。
 今日は出費を最低限に抑えることができた。国慶節は日本で言うゴールデンウィークなのでどの交通機関も激しく混雑する。だから7日までに上海に帰れる保証はどこにもない。とりあえず明日長春→上海の航空券をクレジットで買うことにした。現金も大事だが、観光に行っていろいろなものを見てこなければ旅ではない。明日から長春を満喫するぞ!


10月4日(星期一)「Changchun it's very exciting city」
長春 晴れ

 外に航空券を買いに行こうとすると、ホテル内に出張所があるのを見つけ、なーんだと思いつつそちらにむかう。上海行きの券を頼むと、これから五日間は「没有」だという。ありえない!こうなると他の都市から出ている上海行きの飛行機に乗るか、列車で上海に帰るしかない。しかし今から列車のチケットは99.9%手に入らない。そこで、遼寧省から上海に向かう飛行機に空きが無いか聞いてみる。瀋陽没有、大連没有、そして最後にまだあると言われたのが「丹東」だった。ここは北朝○との国境になっていて、私も興味をもっていたところだ。しかし最近の国際情勢からいって、そこに行くことは少し勇気がいることだった。しかし上海に帰らなければ・・・結局丹東からの券を買ってしまった。(G先生ごめんなさい)7日に上海に帰るつもりだったが、丹東の飛行機は一週間に三便しか無く(それでよく席が空いてたな)、6日の券も無かったので8日になってしまった。ということで次の目的地は丹東に決定!
 朝食はバイキングだ。味は・・・まぁ、平均レベルだ。そして市内観光に出発。清朝最後の皇帝溥儀が過ごした宮殿跡がある皇宮博物館に向かうべく264路のバスに乗ろうとバス停で待つ。待つこと10分、やってきたバスはフロントガラスにヒビが入っていた。かなり嫌な予感がする。バスに乗ろうとすると乗り込む前にフライング発車し、車掌が私を車内へと引き上げる。あれには正直かなりびびった。運転もかなりあぶなっかしく、ひやひやしながら座席に座っていた。中国の道路は日本より危ないが、長春は特に危ないところだ。昨日から思っていたのだが、道路を渡ろうとするものなら特に気をつけないと撥ねられる。素人にはお勧めできない。バスに乗っていて事故を目撃した。労働者が押すねこ車がワゴン車に撥ねられていた。これがもし人間だったら・・・本当に道路は危ない。
 皇宮博物館の入場料は40元。しかし学生証を出すと半額の20元になった。恐るべし学生証パワーだ。中に入ると観光客だらけだった。皇宮をはじめとする建物はとてもきれいで、溥儀が住んでいたころそのままの雰囲気だ。皇宮の中にある庭園に立ったとき、私は感動した。私は今、溥儀がいた皇宮と同じ場所に立っている・・・私の祖母は旧満州出身で、溥儀の話など小さい頃からよく聞いていた。そして今日、私は実際にその場所にいる。私は旅をするときにいつも思うのがが、実際にその場所に行かないとわからない雰囲気がある。今日のこの雰囲気は最高だった。私の夢がひとつ実現したのだ。
 皇宮に大満足した私は、とりあえずホテルの近くまでもどり、ふらっと入った朝鮮族食堂で冷麺(3元)を注文する。しばらく待つと氷が浮いていてキムチが固まった状態の「凍」麺が出てきたが、麺がもちもちしていてとても美味しかった。お腹いっぱいになって、そのまま旧満州時代の建物が林立する新民大街に向かった。ほとんどの建物は今は病院や大学やホテルになっているが、私が最初に行った国務院跡だけは博物館のようになっていた。デジカメで写真を撮りまくって帰りのバスに乗る。そこでようやくフライング発車の理由がわかった。また事故を目撃した。バス同士で追突事故を起こしていて、ガラスが粉々に割れていた。長春ではよく交通事故が起こるので、バスが長時間停車できないのだ。妙に納得して宿泊先のホテルに戻った頃にはもう夕方5時だった。
 夕食は昨日の場所でワンタンを食べたが、岩海苔と海老が入っていてこれも美味かった。長春は料理が美味しい。美味しいご飯を食べたあとは幸せな気分になる。これは人類共通の享受ではないだろうか。少ないお金で美味しいメシを食べられる中国万歳!万歳!万々歳!


10月5日(星期二)「映画村見学」
長春 晴れ

 最近は毎日早起きだ。朝一で長春駅に向かい時刻表を購入。丹東行きは一日に二本しか出ていないので、明日の午前7時に長春を出て夕方5時に丹東に到着する列車に乗ることにして、切符売り場に並ぶとあっさりと買えた(41元)が、他の都市に向かう列車は今日も明日も満席で席なしの券しか売っていなかった。なぜか丹東行きだけが余っていたのだ。ホテルに戻り、12時くらいまで寝ていた。
 午後は長春映画村に向かう。ここは満州国時代に満州映画会社が建てたスタジオを、そのまま中国が使っていたもので、10年ほど前まで実際にここで映画の撮影をしていたらしい(現在は移転した)。中では今までにここで作られた作品のパネルが展示してあり、どれも新中国を代表する作品ばかりである。ここは来年4月にユ○バーサルス○ジオのようなテーマパークとしてリニューアルオープンする予定らしい。さらに奥に進むと、特殊効果や音などの技術の説明を受ける。CG真っ盛りの現代映画に比べると多少遅れたものだが、それはそれでおもしろかった。外に出ると映画で使う戦車や戦闘機のが展示してある。ここは80%の満足度だった。
 外に出ると路面電車が走っているのを発見。旅オタ尚且つ鉄オタな私は一区間だけ試乗してみたが、大連で乗ったやつとあまり変わらないので若干がっかりした。しかしバスと同じでフライング発車したのには驚いだ。
 夕食はまたいつものところで冷麺を食べた。すると隣の座席でなにやらもめている。おじいさんと服務員の間で話が通じていない。この店は先にお金を払うシステムになっているが、おじいさんはわかっていないらしい。よく聞くと日本語で「わ〜かり〜ませ〜ん」と。日本人だ。連れの中国人のおじさんはどっか行ってしまったらしい。私はすでに食べ終わっていたのでとりあえずスルーして部屋に戻り、少し抗日ドラマを見て、明日に備えて早めに寝た。明日は久々に5時半起きだ。


10月6日(星期三)「これは旅行ではない、修行だ 〜11時間耐久列車」
長春→丹東 晴れのちくもり

 目覚ましの音で眼が醒め、荷物をまとめてチェックアウトする。始発のバスに乗って長春駅に向かい、食料を買い込んで万端の体勢で改札口に並んだ。すると隣に並んだ男性三人組みの左胸の何か見たことあるものが・・・金日成バッチ!朝鮮人だ。三人は朝鮮語で議論していて聞き取れないが、切符の「10号車」の「10」を中国語で何と読むのか議論しているらしく、「シー?」とか「スー?」とか頑張って発音していた。可愛いものだ。
 列車は6時48分に長春を出発。普快(準急)だからほとんどの駅に停車する。だから列車の旅は長い。しかし切符が余っているだけあって、そんなに混雑していなかった(とはいえ90%ほどの着席率だが)しかし、四平、開原、鉄嶺と列車が進むに連れて通路に立つ人が増えてきて、瀋陽につくころには通路を通れないほどぎゅうぎゅう詰めだった。その光景は朝の京王線と大して変わらない。瀋陽に着くと、降りた人の席をめぐって激しい争奪戦が繰り広げられていた。この状況で席を立とうとするものなら、帰ってきたときの席の保証がないので、私はずっとトイレと昼メシのカップめんを我慢していた。硬座での長距離旅、これは旅行ではない、修行だ。耐久戦はこれからもあと6時間続く。
 本渓を過ぎたあたりからだんだん客が減り始め、トイレにも行けるようになった。このころになってやっと隣に座っている親父と話しはじめた。山東訛りがあるから山東親父だ。彼は私がしばらく日本人だと気がつかなかったので、こちらから身分を明かすと、とても驚いていた。50歳くらいの中国人と話をするときには、だいたい日中関係の話になる。また、年齢を問わず、現地の人と知り合ったときにはほぼ100%中国の経済発展の話になる。かなりつっこんだ話をしたが、大部分の庶民は日本のことをとても発展した国だと認めていて、これから日本と仲良く共存していくことを望んでいるという。私たちも同じだと言うと山東親父はとても喜んでいた。話をしているうちにいつの間にか丹東に到着した。丹東の街は霧に包まれていた。
 駅のそばの売店で地図を購入し、客引きをスルーしてタクシーに乗ったら何とおばちゃんドライバーだった。ここ丹東は女性タクシー運転手が多い街だ。行き先を告げると「何でそんなに高くて不便な場所泊まるのさ? 」と聞かれ、人民元が無くてクレジットが使えるホテルに行くしかないんだと言っておいた。すぐに三ツ星ホテルに到着し、降りる時に名刺を渡され、「明日観光に行くなら呼んでくれ」と言われた。まぁ、あいさつみたいなもんだと思って大して気にしないで下車し、ホテルにチェックインした。その時に価格交渉をして、360元の部屋を朝食付きで170元にしてもらった。半額以下である。さらに部屋の設備が今まで泊まったホテルの中で一番よかった!シャワーのお湯が普通に出る!部屋も清潔だ。そこで一ヶ月ぶりくらいに浴槽に浸かってしまった。日本人はやはり風呂が大好きだ。風呂上りに鴨緑江まで散歩に行くが、空が暗いのと霧で対岸の北朝鮮は全く見えない。帰りに冷麺を食べ、長旅で疲れきっていたので部屋の電気を点けたまま寝てしまった。


10月7日(星期四)「中朝国境サバイバル体験」
丹東 曇り時々晴れ

 朝、とりあえず鴨緑江大橋に向かうが、また霧がかかっていて対岸が見えない。対岸は北朝鮮の新義州(シニジュ)というかなり大きな都市らしい。おお霧よ、お願いだから晴れてくれ。そんなことを願っても霧が晴れないのでバスターミナルに向かい、虎山長城に向かうことにする。バス乗り場でバスを待つが一向に来る気配が無い。売店のおばちゃんに聞くと「今は無いよ!」と。そこに泊まっているタクシーに乗るように言われるが、すぐに断って、昨日のおばちゃんドライバーY氏にを呼ぶことにした。知らない街なのでちょっとでも知っている人のほうがいいからだ。私が電話すると、「馬上去!」(すぐに行く)という。しかし経験上言わしてもらうと、中国人の「馬上」ほど信用できないものは無い。案の定20分ほどしてやってきた。約束した場所は駅前の郵便局だったが、Y氏は駅前の別の郵便局で待っていたらしい。てな訳でとりあえず出発。虎山までは30キロくらい(新宿〜立川とほぼ同距離)あるらしい。そこで価格交渉。半日包車(半日チャーター)で100元になった。まぁ、こんなものかな。おばちゃんと話をしながら虎山に向かう。
そこで変な話を聞いた。「虎山には小川が流れていて、そこが国境になっている。もし彼らに何か食べ物をあげたら写真を撮らしてくれる。」というのだ。まさかぁ、と思いつつ虎山に到着。Y氏は待っていてくれるという。チケットを買い、長城沿いに少し歩くと、さっきY氏が言っていた小川が流れている。そこには中国人観光客(ツアー客?)がぽつぽついて、石碑の前で写真を撮っていた。石碑には「一歩跨」と書いてあり、やたらと軍人がいた。そしてこの小川こそが国境なのだ。「一歩跨」とはその字の通り一歩跨げば北朝鮮に入れてしまうことを表していて、小川の川幅は5mくらいしかない。ちょっと助走をつければ簡単に飛び越えられそうな距離である。しかし飛び越えることは許されない。それは死を意味する。この小さな川が人間、交通、文化、国家、あらゆるもののボーダーラインになっているのだ。私は以前から国境線というものを自分の目で見てみたいと思っていたが、よりによって中国と北朝鮮の国境で今日その願望が実現した。
 突然、向こうから武装した朝鮮兵が出てきた。するとこちらにいる中国人観光客と中国語で話を始めたではないか。向こうの朝鮮兵はどうやら食べるものを要求しているらしい。するとその中国人、向こうに向かって青島ビール(?)と、クッキーを投げたではないか。するとその朝鮮兵は急いでそれを拾い上げ、「謝謝!」と言ってその場から一目散に立ち去った。北朝鮮の食糧不足は日本で報道されている以上に深刻らしい。私はその光景を目に刻んで、、長城に向かおうと岩肌沿いの道を歩き始めた。国境は拍子抜けするくらいのんびりしていて、二人の中国兵がインディアカで遊んでいる。Y氏よ、あなたのおっしゃることは真実でした。
 岩肌沿いに桟道を進んでいくと、つり橋があり、渡りきったところが分かれ道になっていて、河原に下りる道と長城方面に行く道に別れていて、私はその時道がわからなかったのでとりあえず河原に下りた。すると長瀞くだりのようなボートが三艘いて、なんとなく人が一番多い船にタダで乗ってみた。観光用の船だが、護衛の中国兵が三人乗っている。すると今までと反対方向に進みだし、しばらく進むと、突然エンジンが停止した。ガソリン切れらしい。するとみんなで手で漕ごうと船頭が言い出して、私も手漕ぎボート部隊に参加した。すると船のそこから「ガッ」という音が聞こえ、船が完全に停止した。どうやら座礁したようだ。しかも北朝鮮側の岸でだ。私はその瞬間、ある意味覚悟を決めていた。すると、北朝鮮の農民が二人川の土手を通過した。こっちが「アニョハセヨ!」と声をかけると向こうも「アニョハセヨ!」と手を振ってきた。間違って船に乗ったことでものすごく貴重な体験をさせてもらった。10分後、ガソリンが来て、船はまた動き出し、また一歩跨に戻ってきてしまった。私はまた岩肌沿いの桟道を歩き出し、しばらく歩くがいくら歩いても長城に辿り着かない。それに、岩肌沿いには蜂や蛇がうじゃうじゃしているので高速でスルーしていった。
 やっとの思い出長城の東端に辿り着くと、今度は上に向かって何百段も階段が伸びていた。何度もY氏の友人から今どこだ今どこだと電話が掛かってくる。できるだけ急いで長城を上って駆け下り、出口に来たときにはもうへとへとだった。Y氏は一時間半も待っていてくれた。冷えたコーラを一気飲みすると喉がつまりかけた。私はこうして中朝国境から「生還」を果たした。
 Y氏のタクシーで錦江山公園に向かい、彼女と力強い握手をして別れた。錦江山公園は丘になっていて、晴れていると頂上から北朝鮮がくっきり見えるらしいが、今日も霧が完全に晴れていなくて、望遠鏡を借りても全く見えなかった。さっき間近で見てきたからまぁ、いいか。諦めて遅めの昼食の刀削麺を食べ、ホテルに戻ってその日はずっと部屋でごろごろしていた。
 夜になって夕飯を食べに行く途中に中国銀行を見つけたので入ってみると、シティバンクと提携しているATMがあるではないか!私は1500元引き出し、やっと金欠症候群から開放された。完全に気分がハイになったのでケンタッキーで30元も使ってひたすら食べまくった。それからまた鴨緑江に歩いていき、北朝鮮に向かって叫んだ。「ケンタッキー最高!!!」


10月8日(星期五)「旅の終わり」
丹東→上海 曇りのち晴れ

 朝七時に悠然と起床。まだ見学していない抗美援朝記念館(朝鮮戦争記念館)にタクシーで向かう。内部はとても広くて、全部回りきるのに二時間ほどかかった。そこには当時の資料や、飛行機や空射砲が保存されていて、中国からみた朝鮮戦争について学ぶことができた。そのままバスで最後に鴨緑江大橋と鴨緑江断橋に向かう。バスの中で私の前にいたメガネをした青年がとても日本人に似ている気がする。
 今日は霧がそんなに出ていないので対岸をはっきりと見ることができる。私は最後に断橋のほうに行った。断橋とは文字通り途中で途切れた橋で、朝鮮戦争中にアメリカ軍によって破壊されたものを今まで保存している。私は断橋の上に上がると、展示パネルなどに目もくれずに、たったかたったか橋の一番先端部分まで進んでいった。望遠鏡を覗くと、新義州の町並みがはっきりと見ることができた。小学校があって子供たちがドッジボールで遊んでいて、その横には公園があり少年が何人かでサッカーをしているのも観察できる。望遠鏡をさらに左に動かすと遊園地の観覧車が見えたが、動いている気配は無い。朝鮮兵がちらほら見える以外は至って普通の風景である。私はそばにいたカップルに写真をお願いして、北朝鮮をバックに一枚撮ってもらった。すると彼らはそこにいる人は日本人ではないかと言う。さっきバスで見た青年だ。声をかけてみるとやっぱり日本人だった。しかも早稲田だった(法政に近っ!)。彼は大学を休学して大連に一年間の期限で留学しに来ていて、丹東には今日着いたばかりだという。彼は中国語を勉強してまだ二年半だというが、とても流暢に中国語を話していてびっくりした。彼はかなりできる。早稲田氏と意気投合した私は昼食を食べるべくある朝鮮族食堂に入った。
 私と早稲田氏は共に冷麺を注文した。私にとってこの旅何杯目の冷麺だろうか。値段は少し高め(8元)だが、味は今まで食べた中で一番美味かった。早稲田氏は長城に行きたいのと、ホテルを探しているということなので自分が宿泊しているホテルに連れていってあげて、私は先にチェックアウトを済ませ、彼が入れ替わりでチェックインした。彼の部屋で彼と旅行のことなどいろいろ話しながら、私は空港行きの車が出発する午後2時ギリギリまえ部屋に居させてもらった。最後に彼と握手をして日本での再会を誓い合い別れた。そして私は空港行きの車に乗って丹東空港に向かった。
 丹東空港はたぶん軍事用の空港で、旅客便は一週間に三往復しか飛ばないらしい。中国南方航空CZ6756便は約30分遅れで離陸し、午後6時前に上海浦東空港に着陸した。着陸してもまだ旅は寮に戻るまで続く。小学校の時、校長先生が「遠足は家に帰るまでが遠足です」と言っていたのを思い出した。これは格言だとこの歳になっても思う。リムジンバスはサッカー場の下に到着し、そばの食堂で刀削麺を食べているときに、店の人が上海語で会話しているのを聞いて、私は上海に帰ってきたんだなぁということを改めて実感した。上海は大都会だ。行く前は人の多さにうんざりしていたのに、帰ってきたらこの町が懐かしく感じる。私は再び寮に向かって歩き始める。そして寮に着き、エレベーターを上り、自分の部屋のドアを開けたとき、私の旅は終わった。

あとがき
   この旅を通して思ったことは、中国はとにかく広いということである。北京や上海はとても発展しているが、その他の地域はまだ上海などの大都市に追いついていけてない部分がたくさんある。中国は現在、経済発展の真っ只中で、日本のみなさんは上海のような発展した中国をイメージしているだろうが、中国全土がある程度のレベルの生活を送れるようになるにはまだしばらく時間がかかるだろう。今まさに発展途上にある中国、いろんな面を持った中国、だから中国は面白いのである。私はこれからも時間とお金が許す限り、中国のいろいろな街に訪れて、自分の目でいろいろなものを見ていきたいと思う。
 それから、この旅での一番の収穫は、自分の意思で行動することに自信がついたことだ。途中さまざまなハプニングに見舞われたが、全てを克服し、結果的に一生忘れられない思い出になった。これから人生何があっても全て乗り越えていけるような気がする。「考える前に実行すること」これはぜひみなさんにもやってもらいたいことで、絶対に人生が楽しくなるはずだ。私は12月に20歳という節目を迎えることになるが、今回の旅行はこれからの人生を決める上での重要なターニングポイントになったことは間違いないはずだ。
 最後に一人旅を許可してくれたSA担当の大高さん、玄先生、送り出してくれた五期生のみんな、お父さん、お母さん、おばあちゃん、旅で出会った全ての人たちにこの場を借りて感謝のことばを言わせてもらいたい。「謝謝!」







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