 両国 (担当:ダーヨウ)

1.花火(隅田川花火大会)
2.相撲
3.なぜか忠臣蔵
1.花火の歴史
中国で発明され「狼煙(のろし)」として使われた黒色火薬が花火の祖先である。
一説には火を吐く人形のようなものだったらしいが、その後ヨーロッパ中に広がり大航海時代と共に世界中に伝わった。日本への火薬の伝来は1543(天文12)年の種子島だが、1613(慶長18)年イギリス国王の使者ジョンセリスが、駿府城の徳川家康を尋ねたとき持参の花火を見せたという記録が残っている。現在のような打ち揚げ花火の登場は19世紀になってからである。
*両国の川開き(隅田川花火大会)
1733(享保18)年、前年の大飢饉とコレラの大流行による死者の霊をなだめ、悪霊退散祈願のため8代将軍吉宗は「施餓鬼」を催し大川端で花火を打揚げた。これが世に言う両国の花火である。川開きは納涼期間の始まりの日という意味である。その後中断を挟みながらも続いてきたが、1961(昭和36)年を最後に交通渋滞、建物の密集、川の汚染などを理由に中止が決まった。中止を惜しむファンの声に押されて復活したのは、1978(昭和53)年の事だった。
2.相撲
*古来の歴史
日本相撲の歴史は古く、「古事記」の中で、建御名方神(たけみなかたのかみ)と建御雷神(たけみかづちのかみ)が出雲の国をかけた力くらべをして、建御雷神が勝ったという記述が起源とされ、「日本書紀」によると、第十一代垂仁(すいにん)天皇の御前で野見宿弥(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)が日本一を争ったと、記されている。時代が進むと相撲はいつしか闘いよりも豊作を願い神に奉納する神事としてや、余興としてとられるようになっていた。江戸時代になると、寺社の建立や修復の為の寄付を集める為に庶民的な相撲が行われるようになった(勧進相撲)
*現代の大相撲の前身
江戸時代後期に入り、今の日本相撲協曾の前身にあたる江戸時代相撲会所が整備され、相撲年寄りと相撲部屋も次々と誕生した、雷電や不知火が活躍したこの時代である。昭和になると、土俵の危険な4本柱も撤廃され、戦前のラジオ中継に続き戦後のテレビ中継、平成になって世界に向けて衛星中継も始まった。
3.なぜか忠臣蔵
*忠臣蔵の概要
元禄14年(1701)3月14日、播州赤穂藩主で勅使接待役を命じられていた浅野内匠頭長矩は、接待の指南役高家吉良上野介義央に、江戸城松の廊下に斬りかかったが制止されて目的を果たせませんでした。事件に対する幕府の裁定は、内匠頭は切腹・浅野家は断絶。一方、上野介はお咎めなし。浪人となった赤穂藩士はこの裁定を不当と考え、翌年の吉良邸討ち入りにつながる。
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