高祖:おもいっきり捉えられない・・・。だから自分がどうして自分、例えばいろんなあのー、聴覚や視覚やなんかがあって、それで僕が今そういうことを今しゃべったりしている、なんとなく僕はだから、見たり聞いたりしているけれども、あの僕自身としてはそれをなんとなく機能として一緒にサブ高祖とか、高祖岩三郎ていう人がいて、こういうふうにやっているけれども、その機構自体としてはわからない。
森村:ふんふん。
高祖:僕の、あのそのだから、なんていうのかな、そうするとだから、あのーなんていうのかなー、どっかでそのー、トランサルデンタルアパーセプションが、こうよじれて、つながっているような気がするんですよね。
森村:うーーん。
高祖:それで、なんとなく、なんていうのかな、なんとなくそのだから、僕はもしかしたらサイバースペースっていう言葉を、なんていうのかな、かなり、そのいろんなニュアンスをおいて、考えているのかもしれないけど、あのーなんていうのかな、うん、サイバースペースっていう言葉が、たまにそのー、その両方のニュアンスを帯びたりすることがあるんですよね。
森村:ええ。
高祖:あのーだからサイバースペースっていうの、だからごく普通にいう、だから電脳っていうのよりも、その、我々の、だからあの、なんとなく僕が三上さんの作品を見て考えることが、そのー森村先生が今言った、その現象学のほうで考えるのは、そのやっぱりだから、身体としてどっかでつながってしまっている。
森村:ええ。
高祖:ただそれが意識できない。でも我々考えたり機能したりしているときは、もうだからあのー、主観とか主体っていうふうにとっぱらえない。で、なんていうのかな、なんとなくそういうことの中で、その、そういう自意識を得るには、その、主観とか主体とかっていうレベルじゃなくて、かなり、分断された状態の中で、部分的におこったりする。そういうことが、三上さんの作品でおこっているんじゃないか。
森村:うん。
高祖:で、今その物自体っていうことに対する答えになっていないかもしれないけど、ちょっと補足的に・・・ちょっとコンフュージングですね・・・。ただだからその、今日面白かったのは、そのだから、なんとなく物自体はトランサデンタルアパーセプションの両極端にありながら、機能、認識論的な機能としては似てるところがあるわけですね。
森村:ええ。
高祖:どうしてかわからないような状態をしているんですよね。
森村:ええ。
 
  高祖:どうですか?
三上:私ですか?
皆:ハハハハハハ
三上:まあ、でも高祖さんが言ってたじゃないですか。見えることそのものを見るっていうことが、・・・ちょっと変な感じですけれども、そこらへんがちょっと哲学的に関係するのかも・・・さきほど高祖さんが・・・あと先ほどちょっとお話された触覚?、最後に触覚っていうので、触覚のプロジェクトっていうのが重力の前にありまして、今、ベルラボ、高祖さんはご存知なんですけれども、ニューヨークにベルラボラトリーっていうのが、ベル研究所、電話を発明した人の研究所で、そこにいたことがあって、そこで開発をしててもらった。ただそれは、ちょっと2年間ちょっとベルラボラトリーに帰らなきゃいけなくて、そのインターフェースがなかなか戻ってこないということで、2年が4年になったんですよ。むこうで、研究所につなげてて、今年の11月に戻ってくるんで、ようやくそこに着手できるんですけど、視覚のあとは、触覚だったんですよ。触覚について重力が無いことを考えていて、例えば先ほど言ったことで、ここにマウスがありますよね?普通に皆さん使ってる。ここに、カーソルがこう動いてますよね?で、今感覚的に動かせてますよね?触覚で。ただこの画面上が100個のカーソルがあったとして同時に動いたとしたらどのカーソルを動かしているのかわからなくなるじゃないですか。ただこの触覚を考えるときにそういう、ずいぶん実験をしていて自分が認識している物が一つだったらわかるけれども、たくさんになったとき、わからないとか。この距離感によってずいぶん違ってくる触覚。なんかだから触れば道具だとか。そういうものもよくありますよね?あのー目隠しすると全くわかんなくなるというのとが、すべてがこうつながりあっている。というようなことがあるから、バラバラにはやってきているんだけれども、最終的には機能を変えてもつながっていく。のではないかな・・・
森村:うんうん。
 
  三上:ってのがちょっとあります。で、夜はその間にそれがまあフェンディング、そこのインターフェースがフェンディングになった状態で、さきほどおしゃったけど、たぶん哲学ってのは私はあんまり詳しくないんですけれども、世界とはなんだってのをえんえんとやってらっしゃる。
森村:そうですね。
三上:簡単に言ってしまえば。違いますかね?で、そこで世界とはなんだっていうことで、身体とはなんだっていうのが、すごい考えてて、身体は世界であるというような・・・
森村:はいはいはい。
三上:たぶんあると思うんですけれども、・・・で、身体を考えたときに知覚とか、知覚だけじゃなくて感覚もあるし、知覚、感覚、認識って段階的に違いますよね?人間の情報処理・・・。
森村:はいはい。
三上:人間の情報処理っていうのも、それはちょっと話すと長いんですけれども、認知だけはコンピューターサイエンスとも言われていて、そういうことがあるんですけれども、なんか重力しかなくなっちゃたんですね。もう考えが。だからそこを考えてしまうと、すべてのものがゼロ、御は算になる可能性もあるんですけれども、あえて、そこが気になって、いわゆる、建築もデザインもこの世の全てのものが逆らえないわけじゃないですか、我々の身体も。で、世界っていうものも、地球っていうものを捉えても、ま、逆らえない。そこをあえて、考えてみようっていうところに、今入っている。
森村:はいはいはい。
三上:といったようなところで、経緯としては、そういうくだらない・・・
森村:順番が・・・。
三上:待ってる間に、身体のこと、世界、身体、考えすぎて、重力にいたった。で、今、重力を再考するっていうのは、あえておもしろいんではないかと。重力を考えるときに、重力ってのは別に縦軸だけではなくて、さきほど見せたヴァーチャルフォースのようにいつも、我々の内側に、バネがあるので、ただ、そこから逃れられないからこそ、ま、多少抽象的な表現で、もうちょっと抽象的に先ほどの、見せたのは最初のバージョンなのであまり抽象的ではないですが、もうちょっと感覚的に空間に入っただけでここ再認識するというような空間もできている。ほんとは順番としてはこれはあんまりやってはいけない領域だったのかもなあとも思うんですよ。
高祖:重力の場合に、一番なんか体の中にあって、外に、同時に外にあるという・・・。
三上:認識してないんですね。普段はね。
森村:そうですね。
 
高祖:それがおもしろいわけですよね。
森村:それがすごくおもしろい。哲学ってどうしても、視覚とか外界、外郭器官っていうんですかね、外との関係・・・。
高祖:内と外とわっちゃう。
森村:わっちゃうところがあるんですよね、やっぱり、その・・・。
高祖:重力においては、そのなんとなくわれないんだっていうかね・・・。
森村:うんうん。
高祖:で、さっきの限界、で、我々とりあえずの限界っていうのは地球なんだから。
森村:ええ。
三上:あとは、レオナルドダヴィンチ、と、かなり、関わっているんですけれども、彼は考えているんですね・・・重力について・・・。ま、彼はいろんなことを考えて・・・今の歴史をつくっているわけですけれども、哲学者で、その重力っていうもの、あるいはgravityっていうものをあえて認識した人っていますかね?
森村:重力ってあのー、記憶がさだかでないかもしれないんで、ウソかもしれないんですけれども、なんかドゥルーズが書いてませんでしたっけ?
高祖:あーそうですか。
森村:なんかどっかでみたような気がするんですけど・・・ちょっともしかしたらまちがってるかもしれない。
高祖:僕はどうなんだろ、やっぱり、重力、地球っていうことでいくとやっぱり、ジャックルーズ(?)あたりがやっぱり地球って感じがするんですけれども。
森村:ま、だからその、身体ってすごく、そのー物理的に皮膚で限界があるように見える身体像ってのは、わりあいと、哲学でもオーソドックスに扱ってくるけれども、僕もドゥルーズが好きなもんだから、ドゥルーズにひいきめで読んでいるからあれなんだけれども、そういうところじゃなくて、ドゥルーズの身体っていうか生体っていうか、物質とか非物質とか割合とこえてしまうような、今日道々電車の中で何を色々話して質問しようかと思ったときに、全然今日のお二人の話を聞く前だったので、考えたときに、フィジカルとメタフィジカルっていうありますよね、フィジカルと物理的なメタフィジカル、形而上学っていうふうに、翻訳されているけれどもメタっていう考え方を、西洋人はすごく好きだから常にメタっていうんだけれども、かたっぽでトランスっていう、つまり、トランセデンタールとかっていうような場合とかトランスポート、トランジッションま、ようするに、トランスって使う時それ以外になんかこう、それについて語る軸ってないのかなーって。つまりメタってようするに、それを超えてとか、ギリシャ語で何々の後にとかっていうのもあるけれども、トランスっていうのも、何かを超えてっていう接頭辞だったとおもうんだけれども、例えばフィジックスを超えるのに、メタフィジックスを使ったり、経験的なものを超えるのに、トランセンデント、超越論的、超越って言う言葉を使う。これもたぶんもしかしたらすごく重力的な概念の、超えるとか上のとか、西洋語が持ってしまうような、知らない間に使ってしまう、言語性の中に、重力的な、さきほどの三上先生のお話の中にもあったように、上司、部下とか左と右とかっていうと、まさに似たようなところで彼の概念の中にも知らず知らず入り込んでいるが、それについては対象化しきれていない。だとすると、それを扱うような軸っていうのが何かないのかな、と。そのときにドゥルーズなんかが、物質とか非物質とか、もしくは身体と外界とか、内面と外界とかっていう話、二元論じゃないような、両方が知らない間に接合されてしまうような軸みたいのが想定されてさきほどの、高祖先生のお話の中の神経組織だとかサイバースペースだとかっていう話に、なにかひとつの、どっちという両境界をつないじゃう暴力的につないじゃうところに、何か一つの次元が形成されてしまうような、そういう考え方ってありうるのかなってちょっと思って。
  ←PREVIOUS