2003後期論文
「日本のヘッセとアメリカのヘッセ〜その受容の違い〜」
和田 結花


 

はじめに
 ある文学作品や、ある作家の評価が個人によっては異なるのはもちろんだが、国によっても、その受容に特徴があることは確かであろう。しかし、『はじめて学ぶドイツ文学史』(注1)を読んで、ノーベル文学賞を受賞したこともある、ドイツ(スイス)の作家へルマン・ヘッセが1960年代後半から1970年代前半にかけて、アメリカの若者によって急速に読まれるようになり、いわゆるヒッピーのあいだでは教祖視されていたということを知り、大変驚いた。というのも、私自身もヘッセの作品の愛好者であり、彼の作品を内的成長、内的幸福を追い求め、青春のつらく美しい感覚を描いたものとして捉えていたため、なぜそれがヒッピーたちに強烈に受け入れられたのか、戸惑ったからである。日本でも、ヘッセの作品はよく読まれているが、それは青春小説という認識が強いのではないだろうかと感じていた私は、ある作家の作品の国による受容の違いに興味をひかれた。そして今回は、アメリカのヘッセ受容と日本のヘッセ受容の違いを探りたい。

      「日本のヘッセとアメリカのヘッセ  〜その受容の違い〜」
◆日本のヘッセ
 ヘッセが日本に始めて紹介されたのは、ヘッセ研究家の高橋健二氏の調査によると(『ヘッセへの道』新潮社 昭和48年)『クヌルプ』の三つの物語の第二の部分『クヌルプへの私の思い出』が、茅野  訳による『友』という題で、文芸雑誌「スバル」第一号(明治42年)である。
 昭和11年には『荒野の狼』(1927)や『ナルツィスとゴルトムント』(1930)が紹介されていたが、ヘッセの名が日本に急速に広まったのは、『ペーター・カーメンツィント』(1904)が、関泰佑訳で、『青春彷徨』と題され、昭和12年に岩波文庫本として出版されたことによる。翌年、同文庫に『クヌルプ』(1915)『車輪の下』(1906)が収録され、同じく多数の読者を得た。
 その理由は「アイヒェンドルフやシュヴァーベン詩派の詩人たちにつながる作家として、そのみずみずしい自然感情、牧歌的抒情に彩られた憧れや愛、郷愁や彷徨の思いが、日本の青年の心を、いや大人にとっても青春への甘美な回想として、強くひきつけたことによろう。」(注1)といわれる。
 日本では、ヘッセは主に、「その自然性、叙情性、東洋的観相、求道性が、日本人の世界観や生活感情と合致したり、共感したりして読まれてきた」(注2)といえる。青春の憧憬や抒情性が日本人の情緒性と符合し、孤独や漂白というのも、芭蕉、牧水に親しんでいる日本人にとっては共感しやすかったと考えられる。
◆アメリカのヘッセ
 1960年代から70年代にかけて、アメリカでヘッセブームが起こり、従来アメリカではほとんど知られていなかったヘッセが、若い世代に急に読まれるようになり、ヒッピーの間では教祖視されるにいたった。その背景としては「アメリカではベトナム戦争に対する若者の、反戦気分とヘッセの平和主義、反体制・脱社会のヒッピーとロマンチック・アウトサイダーとしてのヘッセ、アメリカ社会の極端な物質機械文明に対する懐疑とヘッセの東洋的神秘性、といった結びつきがヘッセ・ブームをまき起こした。」(注3)と、社会情勢によるものが大きいと見られている。
・1960年代のアメリカ
1965年にジョンソン大統領はトンキン湾事件をきっかけにベトナム戦争への介入を強める。黒人の人種差別撤廃運動(公民権運動)の結果、1965年に投票権法が成立。1963年ベティ・フリーダンが『女らしさという神話』を出版。これは、1960年代後半のフェミニズム運動再生のバイブルとなった。ニューレフト(新左翼)と呼ばれる学生運動家の活発な活動。1964年から二年半のあいだ、ビートルズ旋風が北米を駆け抜けた。ロック・ミュージックはカウンターカルチャーの創出に大きな役割を果たした。
・冷戦とカウンターカルチャー
冷戦下で文化的均一化が進行した1950年代、アメリカ人主流のメインストリーム文化による逼塞感を避けるかのように作家、詩人ジャズ音楽家などがサンフランシスコのノースビーチへ集まってきていた。(注4)コスモポリタンで芸術的意識が高く、新しい理念に対してオープンな都市では、のちにカウンターカルチャーと呼ばれるものの基盤ができ始めていた。1960年代とは、そういった流れと、反戦運動や公民権運動などがぶつかり合って、噴出した時期だったのだろう。
・アウトサイダー
英米でベストセラーになった、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』(注5)がヘッセに特別な地位を与えて、これがヒッピーのあいだに永続的な『シッダールタ』に対する好奇心を引き起こした。
・東洋思想への傾斜
1960年代にはキリスト教をバックボーンにした国家的使命、つまり国の歴史の宗教的意味付けが、ベトナム戦争などによって疑問視されて、東洋やインディアンの宗教や神秘主義がアンチテーゼとして求められていた。
・「内面への旅」
アメリカのヘッセ・ブームでは主として、『デーミアン』『シッダールタ』『荒野の狼』など後期の作品が読まれていることが大きな特徴といえる。「当時のヒッピーにとって、ヘッセの作品を読むということは、マリファナやLSDなどの幻覚剤による「内面への旅」(トリップ)と同じであった。」(注6)
 個人の魂を解放させるためにマリファナやLSDなどをしばしば使用していた彼らは、読書というきわめて個人的な行為を通じて、「内面への旅」をして自己の魂に近づこうとしていたのだ。そのためには、「主観的な経験」が必要であった。


               おわりに
 アメリカのヘッセ受容は、まさにブームと呼ぶにふさわしいような、一時的・時勢的な ものであった。1960年代後半から70年代前半という限られた期間の中で、主に後期の作品、つまり限られた作品が多く読まれたということは非常に特徴的である。
 一方、日本では昭和10年代にヘッセが流行し、戦後はその流行ほどではなくても相変わらず読まれていく。それは、日本人の読書傾向が、流行とは関係ない、青年の自己形成的なものであるからだろう。しかし、日本では『ペーター・カーメンツィント』や『車輪の下』など、初期の作品はよく読まれるのに対して、『ガラス玉演戯』などの後期の作品はあまり読まれない。それは思春期の「通過儀礼」のようにみえる。あるいは、初期の抒情的で感傷的な作品を好む読者は、後期の、理念的、象徴的な作品を拒否してしまうのかもしれない。
冒頭で述べたように、ヘッセの作品が、1960年代後半のヒッピーたちに好んで読まれたということに、当初私は驚いた。それは私自身もまた、ヘッセの叙情的で青春のほろ苦いかおりのある初期の作品の読者、つまり非常に日本人的な読者であったということを表しているといえるだろう。
 しかし、初期と後期の作品の作風が異なってはいても、ヘッセ自身は同一であり、初期の作品は後期の作品につながっている。初期の作品は、青春期における青年の自己形成を叙情的・ロマン的に描いているが、後期の作品はそこから発展し、より深い自己追求が観念的・象徴的に激しさを持って描かれているため、初期の特徴である叙情性は薄められている。
ヘッセ作品において主要なテーマのひとつである自己追求は、求道的とも言える。そして、その求道性はヘッセ作品が日本人に受け入れられ、共感して読まれてきた要因のひとつでもある。一方、アメリカのヒッピーたちにとっても、自己追及は重要なテーマであっただろう。彼らは、個人の魂を解放させるためにしばしばマリファナやLSDを使用していたが、彼らにとってはヘッセの作品を読むことも、同じように魂を解放させ、さらには自己の魂へと近づくための体験であったのだ。このように考えてみると、日本でのヘッセ受容とアメリカでのヘッセ受容は、思ったほどかけ離れているものではないといえるかもしれない。
だが、それぞれに自分にあった部分を選択して取り入れ受容しているので、非常に独特な、時には極端な現れ方をすることもあるのだろう。国の単位で見れば、その受容は国民性や、そのときの社会情勢によって影響を受けるものであり、大変興味深い。
 今後は、ドイツでの受容やヒッピームーヴメントを代表する詩人であるギンズバーグの作品を調べ、他の資料もよく検討して明確な視座を見つけてまとめてみたいと思う。さらに、少しテーマがずれるが、ユングとヘッセとのかかわり、その東洋観などにも興味を持っている。卒論のテーマを絞るためにも、来年はよく調べたい。

(注1) 柴田翔編著『はじめて読むドイツ文学史』ミネルヴァ書房 2003
(注2) 渡辺勝『ヘルマン・ヘッセと日本人』角川書店 1998 P24 L17 - P25 L3
(注3) 同上   P21 L5 − L7
(注4) 同上   P21 L2 − L5
          (注5) 秋元英一・管英輝『アメリカ20世紀史』東京大学出版会 2003 P254
(注6) C・ウィルソン著 福田恒存・中村保男訳『アウトサイダー』1957
(注7) 『ヘルマン・ヘッセと日本人』P47 L4 −L5

参考文献
井手  ほか編『ヘルマン・ヘッセをめぐって』三修社 1982
亀井俊介編『アメリカ文化事典』研究社出版 1999