2003後期論文
児童虐待とネグレクト〜アメリカの文化的多様性の問題〜
高谷 佳苗


 

はじめに
 子ども時代というものについて社会が目を向け始めたのはごく最近のことである。しかしそれまで児童虐待というものがなかったのかといえば、そうではない。児童虐待は家庭内において頻繁に起こりうる出来事であり、そのことは家庭内のプライバシーを尊重するとして伏せられていた。さらに児童虐待が社会問題として深刻に捉えられることもなかった。しかし近年盛んにメディアで報道さるようになり、明るみに出てきた。もはや無視することのできない大きな社会問題へと発展したのである。
『“It”と呼ばれた子』(デイヴ・ペルザー 著 田栗美奈子 訳 ソニー・マガジンズ)は全3部作から成る著者自身の壮絶な幼・青年期を語ったものであり、私はその作品に深く感銘を受けた。その作品との出会いがきっかけで児童虐待・ネグレクトに興味を持った。児童虐待・ネグレクトとは何なのか、またそれらの問題を解決するにあたって、アメリカ文化を中心に言及していきたい。

1.児童虐待とネグレクト
 1−1.児童虐待
 英語ではChild abuseという。乱用・浪費を意味するラテン語のabus を起源とし、「乱用、悪用、誤用」が第一義的に用いられる言葉である。(*1)したがって日本語の虐待とは少し異なる使われ方をする。身体的・性的虐待にはabuseを、心理的・情緒的虐待にはmaltreatmentを用いたほうが相応しい。maltreatmentは「冷遇、酷使」を第一義としている。(*1)日本の「児童虐待の防止等に関する法律」に含まれる児童虐待をすべて含める用語としてmaltreatmentを用いている。
 1−2.ネグレクト
 neglect は第一義に「軽視、無視、怠慢、不注意」が用いられ(*1)、養育怠慢を意味する。ネグレクトは子どもの基本的欲求を与えないことであるというように考えられている。だが、これといった定義はない。先に挙げたabuse やmaltreatment は大きく社会問題として取り上げられることが多いが、ネグレクトはそれらに比べ目立たない。何故だろうか。注意を向けられなかった理由として次のようなことが考えられる。
・ネグレクトは、深刻な影響をもたらさないと誤って考えられていた
・貧困に関係のあるネグレクトで、親を非難するのは不適切だとされていた
・他のタイプの虐待( abuse / maltreatment )のほうが深刻だと考えられていた
・何がネグレクトなのであるのか曖昧で混乱を招いていた
しかし最近ではネグレクトはもっとも多く通報される虐待事例であり、関心が増してきた。

  児童虐待を含め、児童虐待とネグレクトはなかなか理解するのが困難である。その理由のひとつに、定義の多様性がある。虐待とネグレクトを定義するのが難しいのは、虐待を構成するものは何であるかについてかなりの議論があるからである。どのように定義するかは、児童虐待を通報したり介入したりする判断に大きく影響してくる。人びとが認める規準である社会の規範によってしつけと認められるのか、虐待と認められるのかが難しいところであり、曖昧としているのである。矛盾する理論、社会の価値観、執行手続きなどの問題や人の精神を傷つけたり脅かしたりすることをどう定義することができるのか、また何を作為とし何を不作為とするのかが難しいところである。

2.アメリカにおける文化的多様性
  いうまでもなく、アメリカは人口が多く、人種も多様である。そして児童虐待が大きな社会問題となっている。しかし虐待に対する社会保障や州の取り組みなどが充実しており、その意味で児童虐待の先進国であるといえるアメリカの人種、貧困などに焦点を当て、その文化背景はそのようなものであるのであろうか。
 2−1.人種の多様性
高齢者人口の増大、出生率の低下、マイノリティー人口の増加がこの国の特徴である。アメリカ国勢調査局( U.S. Census Bureau )(*2)によると、マイノリティーであるヒスパニック、黒人、先住アメリカ人、エスキモー人、アジア人、太平洋諸島の人種・民族の増加が予測されている。さらに、アメリカのヒスパニック人口のなかでもメキシコ出身者が最大であり、アジア太平洋諸島系住民のなかでは中国系人口が最大である。
 学歴、所得、職業の地位は人生の変わり目あるいは機会に大きな影響をおよぼす変数であると多くの国民は認識している。人種よりも社会階層のほうが人生の成功の機会を作る重要な要素である。というのも学歴、平均所得、失業率に関しては、人種・民族別グループの内部でも人種間でも大きな差異が存在するからだ。学歴、平均所得、失業率別に見てみると、アジア太平洋諸島系住民は学歴と平均所得が最も高く、黒人とヒスパニックはより低学歴率で平均所得が低い。

   2−2.貧困
 2−1で既述のようにアメリカは人種による学歴、平均所得、失業率の高低が幅広い。それゆえに貧困もまた存在する。貧困状態の要因として人種と民族、婚姻の状態、住居、教育、年齢、性別がある。これらの要因が交差することによって、アメリカにおけるさまざまな不平等が生み出されているのではないだろうか。また偏見と差別がこれらの不平等の多くをそのまま残す原因となっているのである。貧困状態が児童虐待やネグレクトを招いたとされる例は多く見られるが、こういった場合は一様に親を責めるわけにはいかず、解決するのが難しいといった現状である。

 2−3.カウンセリングにおける文化的多様性の問題
 被虐待児やその親を治療するためのカウンセリングにもまた文化的多様性が見られ、大きな注意が払われてきた。治療する立場からすれば、どのような注意を払っていかなければならないのだろうか。
アメリカはかつて「人種のるつぼ」といわれたが、現在では人種の「サラダボウル」あるいは「ピザ」などといわれており多様性に富んでいる。この多様性のために、児童虐待およびネグレクトに関する分野で働く者は自分の信念、姿勢、固定観念などのさまざまなグループに関する偏りを判断するべきである。そして患者の世界観、すなわち彼らの文化的同一性、信念、価値観、問題の構成概念を理解するべきである。世界観によって患者とカウンセラーを組み合わせることが重要であると考える。
多様性を理解するためにカウンセラーは、「カウンセラーの文化的感度を増大させ、さまざまな人種・民族のグループについて、より多くの知識と理解を持ち、感性を磨き、文化的に適切なカウンセリング戦略を展開する」べきである。また患者が直面するであろう重層的な自己同一性と数多くの差別をより注視しなければならない。さらに、カウンセラーは患者の地位と役割に注意を向け、患者が自発的にカウンセリングを受ける関係にあるのか、いやいやながらカウンセリングを受ける関係にあるのかも分析するべきであると考える。カウンセラーは、異なる人種で構成されている夫婦や家族、多民族の個人(たとえば2つの人種の血を引いている患者)および異なる人種の組み合わせによる養子縁組家庭に、より多くの注意を払うべきである。
以上のことをまとめるとカウンセラー自身が治療にあたる場合には次のような注意が必要である。
T.文化的価値観と偏りの認識
  カウンセラーは文化的意識を持たない状態から自分自身の文化遺産に敏感になり、差異を評価し尊敬すべきである。また、いかに自分自身のもつ文化的背景や経験、姿勢、価値観、偏りが心理的療法過程に影響をおよぼすか認識すべきである。さらに、自分の能力と専門知識の範囲を自覚することができ、人種、民族、文化、信念という点では、自己と患者の間に存在する違いに対して緊張せずに接することができるべきである。
U.患者の世界観についての意識
  カウンセリング中の患者に有害となるかもしれない他の人種・民族のグループに対する否定的な感情反応に気づき、非審判的態度で、文化的に異なる患者の信念や姿勢と自らの信念や姿勢を積極的に対比しようとすべきである。また、他の人種・民族の少数グループに対して彼らが抱いている固定観念や先入観を認識すべきである。
V.文化的に適切な介入戦略
  治療に介入するにあたり特性とタブーを含む患者の宗教や精神的な信念、価値観を尊重しなければならないが、これは世界観、心理的な機能、苦悩の表出に影響を与えるからである。また、患者が住む土地にある固有の援助実践を尊重し、少数民族社会に本来備わっている支援ネットワークを尊重するべきである。

 これまで文化的多様性に重点を置いてきたが、人は人種と民族、性別、宗教、年齢、生活史、婚姻の状態、能力、所得、教育、職業に関して自分自身の偏向を考慮すべきである。カウンセラーが自分の偏向と偏見に直面する機会に出会ったときに、自分たちが診断し、判断し、治療する際にいかに客観的になっていないことがあるかを認識する。いかに客観的に患者と触れ合うことができるかが鍵であろう。


まとめ
 これまで児童虐待とネグレクト、およびアメリカの文化的多様性に焦点をあててきた。児童虐待とネグレクトについて追究するにつれ、ネグレクトに注意が向けられていないという深刻さというものを目の当たりにした。虐待というものには注意が向けられてはいるが、ネグレクトはその陰になってしまい、社会はなかなか気づくことがない。それは既述のとおり定義が曖昧であること、発見が難しいことなどがある。ほかの形態の虐待に比べ、ネグレクトが子どもの機能にどう影響するかという研究はあまり行われていないが、適切な調査はたくさん行われている。これらの調査・研究が進み、ネグレクトが虐待同様に深刻な問題であるということを社会的に認識できればと考えるのである。
 またアメリカの文化的多様性について、特にカウンセリングの面から追究した。さまざまな人種・民族が共存するアメリカであるからこそ注視しなければならないことが数々あった。治療するだけのことでも文化的背景が人それぞれであり、人それぞれに合わせていかなければならないということは大変興味深かった。もっと具体的な事例を調査し、文化的多様性を追究していきたいと思う。



参考文献・URL
(*1)『新英和中辞典(第6版)』 研究社 1996
(*2)U.S. Census Bureau http://www.census.gov/
『児童虐待とネグレクト 学際的アプローチの実際』 Mark A. Winton, Barbara A. Mara 著 岩崎浩三 監訳  筒井書房 2002
『子ども虐待問題の理論と研究』 Cindy L. Miller-Perrin, Robin D. Perrin 著 伊藤 友里 訳 明石書店 2003
『児童虐待 (危機介入編)』 斉藤 学 編 金剛出版 1994