2003後期論文
童話におけるコミュニケーション研究
〜ディズニー長編アニメーション「美女と野獣」と
ボーモン夫人「美女と野獣」の比較からみられるフェミニズム〜

西野 豊




はじめに
皆さんは、「白雪姫」、「ピーター・パン」、「美女と野獣」と聞いて、何をイメージするだろう。「白雪姫」と聞いて、私達の頭の中に浮かぶのは、提灯のような袖のドレスを着た黒髪の美女とそのまわりにいる鼻が大きな、サンタクロースのような、年寄りなのに妙に可愛い小人が7人。「ピーター・パン」と聞けば、緑の服を着た、耳のとがった明るい少年。その周りには、光を放つ妖精と動物の格好をしたロスト・ボーイズがいる。「美女と野獣」にいたっては、あのライオンのような獣の姿をイメージする。
 いずれも間違いではない。しかし、実はどれもディズニーが作ったイメージであって、必ずしもグリム童話、アンデルセンなどの原作通りではない。ディズニーが、グリム童話やアンデルセンなどの古典童話を基にいくつかのアニメーションを作り出していることは、ディズニー・マニアや童話マニアには有名だが、今ではディズニー版を原作だと思っている人が多い。
実際私の知人20人に、今回取り扱う「美女と野獣」についてアンケートで調査したところ、ディズニー版「美女と野獣」を知っていた人が、20人中10人、そのうち原作がると知っていたのが、10人中4人、そして原作版の美女と野獣のストーリーを知っていた人は0人だった。(小規模のアンケートなため、この結果についてはやや疑問が残るが)
 では、なぜディズニー・アニメーションは、原作を乗っ取って、これほどまでに人々の心に刻み付けられているのだろう。そこに、私は、2つの仮説を立てた。
1点目は、原作となった古典童話自体が、読まれなくなってしまったこと。その要因として、古典童話に含まれる、複雑さと残酷性でグロテスクな要素が、大きい。作家坪田譲治が書いたことばに「童話は、ことばでもってする人生のつかみかた、即ち人生の要約のしかた、人生客観の方法を教える」「童話は、人生の味わいかたとその深い光と喜びとを教える」とある。つまり、童話とは、子供に人生の教訓を教えるためのツールとして使われてきた。童話が児童への教育的目的を含む時点で、古典童話の複雑なものは嫌われ、残酷的で、時に復讐的な要素は、好まれるはずもなく、次第に原作は読まれなくなってしまったという仮説だ。
そして、2点目としてこのような残酷的でグロテスクな要素を、取り除いて母子とも安心して見ることができるようにしたディズニーのリメイク術にある。そして、このリメイク術が、モダン社会ないし、ポスト・モダン社会にうまく合致したことが、今日のディズニー・アニメーションのストーリーが原作を超えて、人々の記憶に刻まれているかの理由ではないのかと考えたのである。

この2つの仮説を言及するためには、ディズニー版ストーリーと原作のストーリーを比較するのが最も適しているだろう。研究レポートでは、上記の点をさまざまな作品を使い、さまざまな角度から比較、研究し、論じようと思うが、今回は時間的にも難しいので、セメスター・ペーパーとしてディズニー・アニメーション「美女と野獣」〈原作 ボーモン夫人(著)鈴木豊(翻訳)(1992)美女と野獣〉を用いて、以下のプロセスで、論じていこうと思う。

1.ディズニー長編アニメーション「美女と野獣」
2-1.原作:ボーモン夫人「美女と野獣」
2-2.ジャン・コクトー「美女と野獣」
3.相違点
4.相違点から導き出される論

1、ディズニー長編アニメーション「美女と野獣」
まずは、知らない人のため、また明確な違いを浮き彫りにするためにも、ディズニー版「美女と野獣」について、話しておく必要があるだろう。いきなり余談ではあるが、この作品は世界中で大ヒットし、総興行収入が三億ドルを超える最初のアニメーション映画となり、ブロード・ウェイや劇団四季などによってミュージカルにもなっている。
それはさておき、ここでは、簡単なあらすじだけで収めておき、今回の論で重要な細かな点は、3番目の相違点で書いていこうと思う。
あらすじ
 森の中にひっそりと建つ城。若く精悍な、しかしわがままで、人を愛すること、愛されることを知らない王子は、ある日魔女に心を試され、醜い野獣に姿を変えられてしまう。21歳の誕生日にバラがすべて枯れ落ちるまでに、彼は誰かを愛し、また愛されるようにならなければ、一生元の姿には戻れない。自分のような醜い姿をした自分を誰が愛することができようかと絶望にくれる彼の前に、本の中のストーリーにあこがれる美しい女性ベルが、野獣の城にうっかり入りこんでしまったことから、捕らえられてしまった発明家の父親を探しに現れる。父を釈放する代わりに城に拘束されることになったベルと過ごすことによって野獣は次第に人間らしさを取り戻し、人を愛することを知る。
  ベルも次第に人間らしさを取り戻していく野獣に心を引かれ始め、二人の間には愛が芽生える。一方、プライドが高く、ベルとどうしても結婚したい、村一番の男ガストンは、ベルの言うことも聞かずに、野獣退治に城に赴く。ガストンと野獣の一騎打ちの結果、ガストンは谷底へ落ち、野獣は深手を負う。そんな野獣にベルは愛を打ち明ける。その瞬間、奇跡が起こり、野獣は王子の姿に戻り、王子とベルはめでたく結ばれる。
(注:Walt Disney (1991) Beauty and the Beastより)
といったように、この作品は、野獣の人間らしさを取り戻していく過程とそれに伴う愛を主題として演出されている。

2-1、原作:ボーモン夫人「美女と野獣」
 あらすじ
 森で迷い、寒さと飢えとで行き倒れ寸前だった、商人は森の中のお城で、雨風をしのぎ、豪華な食事によって一命をとりとめる。商人は家へ帰る際に、娘ベルのために1本のバラを城から持ち帰ろうとする。そのとき、城の領主である野獣が現れ、大切な薔薇を折った罪として、死をもって償うか、娘を差し出してもらうと商人に言う。三ヶ月の有余と引き換えの箱いっぱいの金貨を持ち帰った父親の代わりに、親孝行であるベルは野獣の城に、父親の代わりに野獣と城で暮らすことになる。最初は、野獣のその容姿の醜さから恐れ、野獣の求婚を断るベルであったが、野獣の紳士的な態度と内にあるその優しさと愛からベルは野獣に恋をする。野獣のやさしさから一度家に帰ったベルだが、野獣が心配でたまらず城に戻り、野獣と結婚し、一生彼のものになることを誓う。その瞬間に野獣は王子の姿に戻った。実は野獣は、邪な妖精によって野獣の姿に変えられた王子だったのである。そしてその呪いを解く鍵は、結婚への同意であった。こうして、ベルは王子とお城で幸せにくらすことになった。
(注:ボーモン夫人(著)鈴木豊(翻訳)(1992)美女と野獣 東京 角川書店より)
といったように原作では、「見た目だけでは判断してはいけない」 といった教訓的なものが読み取れる。

2-2、ジャン・コクトー「美女と野獣」
ディズニー版「美中と野獣」を語る上で、1945年にジャン・コクトーによって映画化された「美女と野獣」は欠かせないだろう。というのも、基本的なストーリー展開は変わらないものの、この映画には、原作には登場しないガストンの元となるアヴナンというベルに好意をよせる男が出現し、野獣も原作と違って、時折、物を壊すなど乱暴な行動をとる。この映画が再映画化されたのが1975年。ディズニーが「美女と野獣」を公開したのが、1991年。ディズニーがその間にも映画を何本も作っていたことを考えると、ディズニー版「美女と野獣」はこのジャン・コクトーによる「美女と野獣」をリメイクしたといってもよいだろう。
(注:ジャン・コクトー(2002)美女と野獣より)

3、相違点
原作とディズニー版「美女と野獣」には、さまざまな相違点がある。ガストンという人物の登場、エミール、ポット夫人などのオリジナルキャラクターの登場。またあらすじでは紹介しなかったが、原作で登場する2人の姉も存在しない。そして、ディズニー版では、ステンドグラスのような表現法で、昔話をするかのように始まり、その時呪いの謎が明かされ、物語の締めくくりも同じ表現方法で描いていることだ。(他のディズニー作品にもこのような傾向は見られる)有馬哲夫の「ディズニーの魔法」によると、最初に呪いの謎を明かすことによって、ディズニーは、見ている人をベルがいつ食べられてしまうかというはらはらどきどきから、薔薇がすべて散ってしまうまでに、王子は人間らしさを取り戻し、ベルと愛し合うことができるかという現代的、時間制限のスリルとサスペンスを加えたと書いている。(注:有馬哲夫 (2003)ディズニーの魔法 P196〜197参照)
しかし同書は、もっと重要な点を指摘している。それは、原作では、ベルが野獣との生活を通して変わっていくのに対して、ディズニー版では野獣がベルとの性格を通して変わっていくということだ。
 原作では、野獣はとても紳士的で、やさしく、細かなところまで気が利く、内面は野獣というイメージとは正反対に描かれている。そしてベルはともに生活し、野獣の内側のやさしさに触れてていくことで、見た目だけにとらわれていた自分から、中身の大切さに気づくようになる。その結果、幸せを手に入れる。一方王子は外見が野獣から人間に変わっただけで、性格面では何も変わっていない。さらに王子は野獣になる前からそのような性格であったと考えられる。故に呪いをかけられたのが邪な妖精のおかげなのだ。王子が呪いをかけられる理由などないのだ。
 一方、ディズニー版では、呪いをかけられた要因は王子自身の横暴さ、人を愛することのできない性格であり、呪いは一種の罰、試練といえる。そして野獣となった王子は、ベルという姿も心も美しい女性によって、人間らしさ、人を愛することを学び、内面から人間に変わっていく。そして、内面が人間らしさを取り戻したとき、王子の呪いは解け、野獣の姿から人間の姿に戻る。
そして、有馬哲夫氏は、同書で、このディズニー版での野獣の変化を引き立てているのがガストンであるという。ガストンはプライドが高く、乱暴で、人間の姿はしているけれど、内面は野獣のように描かれていて、その間違った考えを悔い改めなかった彼は、谷に落ちて死んでいる。そして、間違った考えを悔い改めた野獣は愛する人との結婚という幸せを手にする。
(注:有馬哲夫(2003)ディズニーの魔法 P200〜203参照)

このように、原作版では、登場人物の内面が、女が男によって変わる。ディズニー版では、男が女によってかわる。また自らを変えようとしないものには罰が下る。という点で、違うのである。
また、ディズニー版では野獣が変わっていくことから、ベルも次第に変わっていく。つまり、男が女によって変わることによって、女も変わっていくのである。

4、相違点から導き出される論
 上記の、原作における女が男によって変わるという描き方から、男が女によって変わり、それによって女もまた代わりお互いの幸せをつかむというリメイクは、ディズニー長編アニメーション「美女と野獣」がここまで大ヒットした一要因に間違いない。そこにはフェミニズムが大きく関わっている。女が男によって代わるということは、悪く捉えてしまえば、女性が男性に合わせることを意味する。この考え方は、アンチ・フェミニズムの考え方である。
さまざまな運動を経て、女性観というものが問い直されている現代社会において、このようなステレオタイプな考え方は女性の反感を買ってしまう。しかし、お互いが変わることによって、お互いが幸せを得るとは、なんとフェミニズムの考えに合致しているのだろう。そして、ディズニーが子供、家族向けに映画を発信している以上、この合致はとても都合がよく働いた。実際、子供を映画館に連れて行くのは、大半は母親である。このディズニーによる登場人物の設定の大変更と愛のドラマは、子供だけでなく、その母親のハートまでもつかんだのである。そして、「美女と野獣」は子供も大人も楽しめるアニメーション映画となった。
このように、ディズニーは、原作の古典童話が書かれた時代と今の時代のギャップを埋めてリメイクする。だからその分だけ、人々に受け入れられる作品になるのである。それが、ディズニー長編アニメーションが、原作を超えて、現代の人々に愛されている由縁なのではないか。

おわりに
 はじめにで書いたように、今回の美女と野獣は、私の仮説の一部である。この「美女と野獣」でも残酷的な場面はカットされている。「童話におけるコミュニケーション」(童話と人々の反応)を調べる上で、ディズニー長編アニメーションはとても参考になると思った。今後はこの原作とディズニーによってリメイクされたものを比較研究するとともに、どのような要素が、人々の心を掴むのかということを掘り下げることによって、日常生活におけるコミュニケーションに活かせる論文にしていきたいと思う。


参考文献
Walt Disney (1991) Beauty and the Beast
ボーモン夫人(著)鈴木豊(翻訳)(1992)美女と野獣 東京 角川書店
ジャン・コクトー(2002)美女と野獣
有馬哲夫(2003)ディズニーの魔法 東京 新潮社
有馬哲夫(2003)ディズニー「夢の工場」物語 東京 日本経済新聞社
有馬哲夫(2001)ディズニーとは何か 東京 NTT出版