2003後期論文
なぜ、オオカミは日本のむかし話に登場しないのか
〜童話に見る日本と西欧のオオカミ観の違い〜
名倉嘉之


 

 子どもの頃からの疑問である。なぜ、日本のむかし話には、オオカミが出てこないのだ
ろうか?
ご存知のように、西欧には「赤ずきんちゃん」や「三びきの子ぶた」、「羊飼いの少年とオオカミ」といった、オオカミが登場する童話・民話が多い。オオカミ男なんていう有名なモンスターもいるぐらいだ。しかし、日本のむかし話の中に、オオカミの姿を見つけることは、ほとんどないのではないだろうか?

1)ニホンオオカミの実態
一体、日本にいたオオカミというのは、どういうものだったのだろう?
世古孜著『ニホンオオカミを追う』(東京書籍)によると、「ホンドオオカミの別名とされる。かつて本州、四国、九州に分布したが、1905年1月に奈良県鷲家口で採集されたものを最後に絶滅したとされる。」とある。
いくつかのニホンオオカミに関する記述をまとめてみた。世界のオオカミの中でも、最も小型な種類で、体長95センチ〜114センチ。体高55センチ。体重30キログラム。2、3匹〜5、6匹の群れで生活し、主に鹿・イノシシの肉を食べていた。人間を襲うことはほとんどなかったらしい。絶滅の原因は、人間による駆逐・森林開発の影響・狂犬病の蔓延など、諸説あるが定かではない。

ニホンオオカミを生物学的に考察するのがこのレポートのテーマではないから、生態に関する説明はこのくらいにして、「なぜ、日本のむかし話には、オオカミが出てこないのか?」の答を探っていこう。

2)動物たちが演じるキャラクター
まず、むかし話に登場する動物たちについて考えてみよう。
むかし話を語るうえで、忘れてはならないことがある。多くのむかし話には、何らかの教訓が話の中にもりこまれているということだ。そして、むかし話に登場する動物たちはその教訓に応じて、人間を模したキャラクターを与えられているのだ。
それが最も顕著に表れていると思われるイソップ童話を例にあげてみよう。たとえば、『アリとキリギリス』には、「この話に出てくるアリのように、日頃からコツコツと頑張っていれば、どんなたいへんなことが起きても乗り切れるが、キリギリスのように遊んで暮らしてばかりいては、いつか身を滅ぼす。」という教訓がこめられている。
しかし、改めて考えてみると、このような教訓を伝えるなら、アリとかキリギリスのような虫をわざわざ引き合いに出さなくても、人間の働き者と怠け者がいるという設定で、話をこしらえてしまってもいいではないか。ところが、話の中に人間を登場させると、子供に話して聞かせるには、やはり生々しすぎる。そこで、「あり=働き者、きりぎりす=怠け者」というように、人間に見られるキャラクターを動物に置き換えられている。そして、特定の動物に与えられたキャラクターは、時代を経て、定着していったのではないだろうか?

3)タヌキ・キツネとオオカミ
 『グリム童話』などに出てくる西欧のオオカミのキャラクターは、「人間をだます・食べる悪者」と描かれているものが一般的だと思われる。
では、日本のむかし話において、「人間をだます」動物は?言うまでもなく、タヌキとキツネだ。しかし、私は、日本のむかし話におけるタヌキとキツネの「人間をだます」という行為は、西欧のオオカミのそれと手段がかなり違うと考える。タヌキ・キツネは、「人間をだます」というより、むしろ「人間を化かす」と言った方が正しい。
日本のむかし話の中のタヌキ・キツネは、美女や饅頭に変身して、人間をだます。この行為は、「人間を化かす」と言い換えることもできるだろう。それに比べ、西欧の童話・民話に出てくるオオカミは、『赤ずきんちゃん』(おばあちゃんの服を着て、赤ずきんちゃんをだます)や『オオカミと七匹の子ヤギ』(チョークの粉を食べて声を変え、子ヤギたちをだます)の例を挙げるまでもなく、全く違うものに変身するということはしない。
 なぜか?私はこう考える。タヌキやキツネは変身しなければ、生物としての力の関係上、到底人間に歯が立たない。しかし、オオカミは歯が立つのだ。たとえばリングの上で、もちろん武器など一切なくて、オオカミに勝つことなど普通の人間には不可能だ。実際、中世ヨーロッパには、オオカミが人間を食べるという事件も少なからずあったようだ。シートン動物記にも、『フランスのオオカミ王クルトー』という、百年戦争の頃のパリ郊外に出没し、多くの人間を食い殺した人食いオオカミのことが描かれている。つまり、オオカミはわざわざ変身なんて小技をつかわなくても、充分人間の敵役になれたのだ。

4)ニホンオオカミ=神聖な動物
 では、なぜ、ニホンオオカミは、日本のむかし話における人間の敵役をタヌキやキツネのような小型の雑食獣に奪われたのだろうか?それには、まずニホンオオカミが、日本人にどのような扱いをされていたのだろうか?
 童話『龍の子太郎』の作者としても知られる作家松谷みよ子の著書『現代民話考10』によると、「オオカミは古くから山の神の化身・使者として「お犬様」と呼ばれ信仰の対象になっている」とある。この著書の中には、オオカミにまつわる日本各地の伝承が紹介されているが、「一人夜道を歩いていると、オオカミがついて来て、守ってくれる」という俗に言う「送り狼」の話や、「オオカミが家を守ってくれる」というような「オオカミ=神聖な動物」というイメージが色濃いエピソードが多く見られる。

なぜ、こうもオオカミのキャラクターが、日本と西欧で違うのか?
私は、まず、その原因が日本人と西欧人の生活の違いだと考えた。ご存知のように、日本人は元来、稲作を中心とした農業生活をしてきたが、それに対して、西欧の人々は農業を営みつつも、豚や牛などの家畜に頼る畜産業も盛んだった。オオカミは肉食獣だ。だから、西欧では、オオカミは大切な家畜を食べる害獣だったと考えられたのではないだろうか?
   一方、日本はどうか?日本では、畑の作物を食い荒らす鹿や猪を獲物としていたオオカミは、農作物を守ってくれる益獣だったのだ。
近代以前、日本の庶民にとっては、農作物の出来不出来は自分たちの生活、あるいは生命さえも左右するほど重要であったことを考えてほしい。現代のように、農業がだめだから、土地を売って都会に出よう、なんてことは、ほぼ不可能だったに違いない。だからこそ、オオカミは、農作物を守ってくれる、自分たちの生活を守ってくれる、神聖な動物とされたのだ。西欧の場合は、その真逆と考えてよいだろう。
しかし、これは、「なぜ、おおかみは日本のむかし話に登場しないのか?」という問いの答ではない。その答は次の項で、考えてみよう。

5)3つの仮説
 なぜ、オオカミは日本のむかし話に登場しないのか?私は、2つの仮説をたててみた。

@ニホンオオカミの個体数が、もともと少なかった。
A人里離れた山奥に住んでいたので、あまりその存在が知られていなかった。
B存在は知られていたが、あえてむかし話に登場させなかった。

まず@の仮説を正解とすると、たしかにもともと個体数が少ないから絶滅したのだろうという理屈も成り立つ。ただ、生物界には食物連鎖というものがある。オオカミは、日本に歴史が始まって以来唯一の肉食獣だ。その個体数があまりに少ないとしたら、その獲物となるイノシシ・シカの個体数も同じように少ないはずだ。ところが、イノシシ・シカは、人間が大規模な森林開発を行った後の現代でさえ日本全国に生息しているから、江戸時代以前にはもっといたはずだ。イノシシ・シカが相当数いるのなら、それらの肉を食糧とするオオカミも、やっぱり日本全国それなりの数いたということになる。食糧があればあるほど、死ぬオオカミは少ないのだ。だから、仮説@は正解ではない。 
また、現在、イノシシ・シカはちょっとした田舎に行けば生息しているし、農作物が被害にあったという話も聞く。たしかに、大昔に比べれば人間の居住している領域ははるかに拡がったとは言え、明治以前のイノシシ・シカも、人里離れた山奥でしか生息していないわけではなかっただろう。だから、イノシシ・シカを食糧としているニホンオオカミも、人里近くに住んでいるものも少なからずいただろう。だから、その存在が知られていなかった訳ではない。だから、仮説Aもおかしい。
そうなると、Bの「存在は知られていたが、あえてむかし話に登場させなかった。」ということになる。そこで、私は改めて考察した結果、Bの仮説を実証する、ひとつの根拠を導きだした。

6)ニホンオオカミがむかし話に登場しない真相
ごく一般的な話だが、古来日本人は自然の中に神の姿を見出していた。森や海を恐れ、敬ってきた。それに対して、西欧人はイエス=キリストを神とするキリスト教を信仰していた。
日本人と西欧人の自然との、そして動物たちとの関わりの違いを最も顕著に表している事例を紹介しよう。あまり知られていないが、中世の西欧には「動物裁判」という慣習があった。ブタや牛といった動物を、人間の罪人同様に逮捕し、領主・国王裁判所付属の監獄に放り込み、裁判を行うのだ。もちろん検察官は、その動物の罪状をちゃんと取り調べるし、弁護士までつく。そして、死刑の判決が下った動物は絞首台に送られる・・・。そんなシュールなことを、当時の西欧人は大真面目にやっていたのである。そして、その動物の罪状とは、「家畜のブタが子どもを突き殺して食べた」というものから、「ゾウムシがぶどう畑を食い荒らした」という生物的にどうしようもないものまで多岐にわたる。
 特筆すべきは、「当時の西欧人が動物を人間と同じように扱っていた」という点だ。なるほど、キリスト教では、神という偉大な存在の下に、人間と動物がある。この考えは、動物をはじめとする自然界の森羅万象に神性を見出し、恐れ、敬い、信仰の対象としてきた日本人とは大きく異なる。
現に、日本にはオオカミを祀った三峯神社をはじめ、キツネを祀った稲荷神社や蛇を祀った大神神社など動物を神の使いとする神社が全国各地にある。しかし、西欧で、動物を祀った教会なんて聞いたことがない。
「人間と同等の存在」と考えられていたからこそ、西欧ではオオカミを物語のキャラクターとして描くことにためらいはなかった。しかし、日本人は、動物食物連鎖のトップに君臨するオオカミをむかし話の中に、描き出すことに抵抗があったのではないか。だからこそ、前の章で述べたように、タヌキ・キツネのような比較的弱い雑食獣をむかし話の中に登場させたのだ。
したがって、私は「日本人は、あえてむかし話の中にオオカミを登場させなかった」と考えるのである。

参考文献
池上俊一『動物裁判』(講談社現代新書)
→第六章に書いたことは、この本の著述に影響を受けた箇所が多い。動物裁判は、中国の宦官制度やアメリカの禁酒法など、後世の人間がつっこみを入れたくなるような過去にこそ、異文化を理解する大きな手がかりになることの一例。
池上了・訳『グリム童話 上・下』(ちくま文庫)
→この本には、上下巻で六十七話が収録されている(原作は全二百四十八話)。『赤ずきんちゃん』や『ヘンゼルとグレーテル』などが有名だが、人権上・倫理上の理由から一般化しなかった名作は多い。エログロナンセンスの童話集。
世古孜『ニホンオオカミを追う』(東京書籍)
→現代にニホンオオカミの血が流れている犬を探す、というコンセプトをもとにした研究書。ただ生物学的にニホンオオカミを検証しているので、オオカミを比較文化的に考察するレポートを書く上では、たいして役に立たなかった。
藤原英彦・訳『シートン動物記 1・2』(集英社)
→作者シートンは、生態に基づいたリアルな動物小説を書いた第一人者。彼の著作は、『シートン動物記』としてまとめられている。その中の一つ、『フランスのオオカミ王クルトー』は「人間vs人食いオオカミ」のB級ホラー小説。
松谷みよ子『現代民話考10』(ちくま文庫)
→近代から現代にかけての日本人の間で、口承・伝承されている民話を、童話作家の松谷みよ子が全国を巡って集め、解説した作品。ただ、ニホンオオカミそのものに関する記述はあまり見られなかった。文庫だが千三百円と高かった。
三浦佑之『童話ってホントは残酷』(二見文庫)
→『本当は残酷なグリム童話』(幻冬社文庫)がヒットしたため、二匹目の泥鰌を狙って出版された多くの本の一つ。ただ、童話の書かれた時代背景や暗喩に関して、わかりやすく解説していて、レポートを書く上でかなり参考になった。