2003後期論文
「ノンフィクション・ノヴェルとは何か?〜『冷血』と『復讐するは我にあり』の比較〜」
細川 南津子


 

トルーマン・カポーティの『冷血』は、1959年にアメリカのキャンザス州で実際に起こった殺人事件を基に、3年にわたる面会と調査を続け、その材料整理にさらに3年を費やした上で書かれた作品である。作者自身がこの作品を「ノンフィクション・ノヴェル」と呼んでいる。
 佐木隆三の『復讐するは我にあり』は、1969年に現実に起きた西口彰の事件をモデルにした作品だ。日本において初めて本格的な犯罪を主題とした小説である。
 「ノンフィクション・ノヴェル」と言われるこの2つの作品の構成について比較し、製作の背景にもふれていきたい。


1、 小説の構成
 カポーティの『冷血』は「最後に彼らを見たもの」「通り魔」「解決」「隅っこ」の4つの章から成り、事件の発生、ペリーとディックの逃亡劇と警察による捜査、犯人の逮捕、逮捕から死刑まで、と順を追って描かれている。そして、これらは共時的な語り(※1)によって書かれ、クラター一家の生活とペリーとディックの生活が交互に語られるという方法をとっている。2つの線が一度、殺人(殺す側と殺される側)という点で重なり、また離れ、ペリーとディックの逃亡とクラター家と親しかった刑事のアルヴァン・アダムス・デューイたちによる事件の捜査の話になる。そしてまた、ペリーとディックが逮捕され点が重なると、今度はその2つの線は重なり、死刑になるまで1本の線を辿るのである。この作品の主人公は2人の犯人であるのだが、犯人の視点だけでなく、犯人と関わった人々の視線からも描いている。
 『冷血』では、その時点で登場人物がわからないことは読者にもわからないようになっている。読者は、何となくペリーとディックによってクラター一家が殺害されたことはわかっているが、なぜなのか、どのように殺したのか、どちらが殺したのかというような具体的なことはわからない。それは、その時点で刑事であるアルヴァン・アダムス・デューイが知らないことだからである。後になってペリーやディックの自白によってやっと明らかになるのである。この小説は三人称で書かれ、その人物のわかっていることしか書かれていないのである。
 佐木隆三の『復讐するは我にあり』は、『冷血』に対し通時的な語りで書かれているといえると思う。全ての視線は犯人と関わった人の側から書かれ、榎津巌の心の状態はほとんど描かれていない。犯人というよりも、殺人の起こりから始まり死刑によって終わるひとつの犯罪の全容が描かれていて、犯人と関わった人の話によって物語は進められていく。また、ひとつひとつの章がとても短く、章によって登場人物が変わっていく。この章のタイトルがいいと思う。全て一文字の漢字で、一見しただけでは何がなんだかわからない。けれど何かおそろしいような嫌な感じがするのである。
 『復讐するは我にあり』は新聞を読んでいるような感じの文章だと思う。囲みの記事も多用されている。どのように殺害されていたかなどの詳しいことがきちんと書かれていて、起きてしまった犯罪を後からなぞって行く形の描き方だ。客観的に書かれた、熱のない淡々とした文章である。


2、「ノンフィクション・ノヴェル」とは何か?
『冷血』も『復讐するは我にあり』も実際に起きた殺人事件を取材して作られた作品だ。カポーティも佐木隆三も、実際に起こった事件に取材した小説を書きたいと思っていた。カポーティは、数ある事件の中で、殺人というものは決して人々の興味が薄れることのない事件であると考えていた(※2)し、佐木隆三は犯罪を犯す人も自分とちっとも変わらない普通の人たちではないかと感じて犯罪をテーマにした小説を書いてみたくなった(※3)と述べている。

 では、この2つの作品はノンフィクションと何が違うのか。「ノンフィクション・ノヴェル」という言葉からは、ノンフィクションを題材にした小説ということだけでなく、もはや作りもの(フィクション)と事実(ノンフィクション)というわけ方はできない、というような考え方を受け取ることができる。

 『冷血』では、ヒッチハイクしたペリーとディックが殺害しようとした人物、ウィリー・ジョイ、ペリーの姉の3人を除いた全ての登場人物は実名で記されている(※4)。また、作者が直接観察したもの、関係者に対して自分で行ったインタヴューでわかることしか書いていない。例えば実際にクラター家の4人を殺したのがペリーであるのかどうかもペリーとディックの供述でしか記されていず、カポーティの解釈は書かれていないのだ。そういう意味ではこれはノンフィクションのルポルタージュに近い。けれども、この作品を読んだ時に読者は、これは小説だと感じるはずだ。それは、カポーティがペリーに感情移入していてペリーの心情や生い立ちを細かに書いているからである。客観的ではなく、ペリーに対し読者の同情をさそうような文章になっているのである。また、殺されることになってしまったクラター家の人々がどれほどいい人でみんなに好かれていたのかを書くのに多くのページを費やしている。カポーティは約6年間にわたって調べ上げたことの中から自分が小説として使いたいと思ったところを選び出し、どのように語るかを決め、構成し作品にした。その意味でこれは小説なのである。
 これは実際におきた事件だ。警察はこの殺人を、怨恨だと考えた。ほとんど物がとられていず、殺し方が残虐だったからだ。毛布にくるまれていたり、クッション代わりにダンボールがひいてあったりしたことから顔見知りの犯行だとも考える。しかし、事実は全く違った。また、優しい男だと思えるペリーのほうが4人を殺害したとされていて、読者を驚かせる。事実は予想もしていなかった方向へと進んでいく。だからこそ、もはや作りものと事実といったわけ方は有効ではないのだろう。
 『冷血』のラストのシーンは、ペリーとディックの死刑の1年前に、クラター家の墓の前でアルヴィン・アダムス・デューイとスーザン・キッドウェルが会うシーンである。最後の一文は「彼の立ち去ったあとには、空がひろびろとひらけ、波打つ麦畑には風のささやきが流れていた。」というものだ。小説らしい終わり方である。ナボゴフが述べているように(※5)、小説という形にカポーティが縛られていたことを私はこのラストシーンから感じる。確かにこれも実際あったことなのだろう。しかし、ノンフィクション・ノヴェルというからには、このいかにも小説らしいありがちなラストは排除すべきではないだろうか。
 『復讐するは我にあり』は、『冷血』よりもルポルタージュの要素が色濃く出ているように思う。登場人物の名前は本名ではないが、最初から最後まで一貫して客観的で冷静な視点で描かれていて、報道されたものをまとめて読んでいるかのような錯覚を覚える。犯人である榎津巌の生い立ちはさらりと触れられてはいるものの、全く重要視されていない。なぜ、このような犯罪を起こしてしまったのかという点にはあまり触れられず、殺害されてしまった人についても詳しいことはそれほど書いていない。犯罪を主役として描いている。起きた犯罪を最後まで順番に追っていくのである。犯人と関わった人に語らせて事件の全貌を浮かび上がらせる、という方法をとったところで、すでにこれは小説になっているのだ。
佐木隆三はエッセイ(※6)の中で「N(西口彰)を見た人々ではなく、Nが見た人々」の視線で書きたいと思ったと述べている。これはどういうことなのだろうか。考えるに、N「を」見た人の中にはN自身は見られたことに気付いていないという人もいるかもしれないが、N「が」見た人ならばお互いに見合っているわけだから、直接的にNと関わっているはずである。「Nが見た人」というのはそういうことだと思う。しかし、Nと関わっているといってもN本人ではないから確かなことばかりではない。だから、ノンフィクションではなく、ノンフィクション・ノヴェルなのだ。
 下巻の島という章で初めて榎津巌の心情のようなものが、手紙を通して描かれている。ノンフィクション(事実)として読んでみるとなくてもいいように思える章である。しかし、この章があるからこそ、最後の章が引き立つように思う。フィクション(小説)として読んだ時に大切な章であり、小説としての構成だと思う。
 ノンフィクション・ノヴェルとは、事実でありながらも、その数ある事実から作者が使いたいと思ったエピソードや方法を用いて作られた作品であり、小説として読ませるための構成が成されているものだと思う。


3、主題について
 カポーティは『冷血』を書くにあたり、資料や調査はもちろん、犯人であるペリーとディックにインタヴューを何度もしている。そのインタヴューによってわかったことも『冷血』の中には書かれているわけだが、2人の生活や生い立ちはとても詳しく書かれていて、特にペリーの悲惨な子供時代については至るところで描かれている。カポーティは何を主題しにたかったのか。日常生活の中にたやすく持ち込まれてしまう非日常的な出来事だと私は考える。幸せにくらしていたクラター家を襲った思いがけない不幸、ペリー自身も自分が殺すとは思ってみなかったはずである。何かが重なってしまったために起きてしまう非日常的な不条理な出来事について作者は書きたかったのだと思う。
 佐木隆三は事件から10年もたってから西口彰事件の取材を始めたため、西口はすでに死刑された後で本人に会うことはできなかった。だからこそ、客観的に、冷静で淡々とした文章が書けたのだろが、なぜ犯人がすでに死んでいるこの事件を選んだのか。この事件が怨みでも憎しみでもなく、ただ少しお金が欲しいというだけで起こった事件だからではないだろうか。しかも、盗んだ金銭は人を殺すほど多いものではない。また、行く先々で詐欺を重ねているのに、それでも騙されてしまう人々には少しおかしさも感じる。身近で分かりやすい題材としてこの事件を選んだのだと思う。『復讐するは我にあり』は犯罪そのものを書いた小説だ。「犯罪は、その半分は犯行者の内面に属しているが、その半分は、むしろこの犯罪について語られているところの、様々の現実的な波紋、新聞や週刊誌が事件として報道するところの話法にも属している」(※7)という。後の半分が『復讐するは我にあり』には書かれているように思う。



※1 “synchronic narration” (”The Mythopoeic Reality” Mas’ud Zavarazadeh P117より)
※2 『冷血』トルーマン・カポーティ 新潮社版 1967年 訳者あとがきより抜粋
※3 『犯罪するは我にあり』佐木隆三より
※4 『トルーマン・カポーティ』ジョージ・プリントン、野中邦子訳 新潮社より
※5  ”The Mythopoeic Reality” Mas’ud Zavarazadeh P124 Vladimir Nabokov
※6 『犯罪するは我にあり』佐木隆三より
※7 『復讐するは我にあり』佐木隆三 講談社文庫 1978年 解説より抜粋



<参考文献>
『冷血』トルーマン・カポーティ 新潮社版 1967年
『復讐するは我にあり』佐木隆三 講談社文庫 1978年
『犯罪するは我にあり』佐木隆三
『トルーマン・カポーティ』ジョージ・プリントン、野中邦子訳