2003前期セメスターペーパー
『獣の戯れ』について
和田結花


  三島由紀夫の『獣の戯れ』はとても現実離れした内容で、私は一読しただけでは煙に巻かれたような印象を持った。しかし、だからといって読みにくいわけではなく、むしろ文体の力によってすいすいと読み進められた印象がある。
この作品は、能、特に夢幻能「求塚」の影響が指摘されている。この作品に漂う雰囲気、特異な構成、内容の不可解さ、そういったものに能の影響が関係しているのか、もしくはどう関係しているのか私見を述べていきたい。さらに、「太陽」「獣」「口紅」などの象徴性についてもふれ、主題についても考察する。


「『獣の戯れ』について」

小西甚一は「三島文学への古典の垂跡」で、『獣の戯れ』は能のパロディであり、内容的には「求塚」のパロディであると指摘している。

<夢幻能「求塚」との類似点>
・ 登場人物の顔の描写(事件後)
 幸二は自分のことを「俺はよくできた木彫りの面のような顔をしている」(P14)と思っている。逸平は終始「とめどもない微笑」(P8)を浮かべており、表情の固定という点で能面を思わせる。優子は「大まかな花やかな顔立ち」(P8)で、その最大の特徴は「濃い目の口紅」(P12)である。さらに墓石戒名に入れてある朱が「薄い唇をいつも彩っていた濃い目の口紅のように見える」(P12)とあり、優子の特徴であることが印象付けられている。この優子の顔は、白い顔を唇の紅がまとめている若女や小面といわれる能面と共通の印象を持つ。
・ 墓と塚
 優子のを中央に、右に逸平、左に幸二と並んだ墓が序章で現れる。逸平は幸二に絞殺され、幸二はそれによって死刑になった。優子だけは死んだわけではないが、無期懲役刑に服しており、以前の優子とは同じではなく、精神的には死人である。つまり、3人とも幽霊だといえる。その幽霊たちが入っていく塚が、「3つの小さな新しい墓石」だとすれば、この作品は幽霊能(夢幻能)の定型にあたる道具立てを備えているといえるだろう。
・ 作品の構成
 この作品は優子をシテ、幸二・逸平をワキツレ、「私」をワキ、寛仁和尚を間狂言とした複式夢幻能である。(前場=終章、後場=1〜5章、序章)
 終章であらわれる「私」は、伊呂村を訪れ、泰泉寺の寛仁和尚に会い、2年前の事件の話を聞く。「私」はワキ、寛仁和尚は間狂言にあたる。「私」は刑務所に出かけ、優子に会う。これは、ワキ(「私」:諸国一見の僧)が、シテ(優子:里女)に出会う場面である。そこで「私」が観察した優子は「実に平凡な顔立ち」で、さきの「大まかな花やかな顔立ち」とはかけ離れている。これは、複式夢幻能の場合、前シテはたいてい里女として登場するから、後シテと同じような面であっても前シテのほうがいくらか品の落ちる面を使うからである。
・ スパナの存在
 幸二が逸平の頭を殴るのに使われたスパナの出所は、警察が厳重に調査したが、判明しなかった。スパナは、そこに存在するはずないものであるのに、きわめて自然に置かれていた。なぜなら、このスパナは機を見て、後見が置いていったものだからである。脳の舞台における後見はその曲のなかの人物ではない。だから、曲中人物がいくら出所を詮索してもわかるはずがない。
・ 主題の一致
 「一人の女性をめぐる二人の男性の争い」というモチーフは、『求塚』と『獣の戯れ』で一致している。さらに重要なのは主題の一致である。『求塚』の主題は、仏教的な意味での邪淫である。その「邪」をイメージであらわしたのが「獣」、また「淫」の言いかえが「戯れ」なのであろう。
 以上、簡単に小西の指摘した点をあげてみた。私は、能の知識には乏しいが、どの指摘も、言われてみれば確かに一定の説得力はあると思うし、うまく符合している点も多いだろう。特に、登場人物の顔の描写は、能の知識のない私が読んでも印象に残ったし、再三の繰り返しも意図的に思われる。
 作品の構成についても、私は、三島はある程度能の構成を意識していたのではないかと推測する。というのも、一読した際に終章で突然「私」現れるのはあまりにも不自然に感じたからである。「私」は事件後の優子(と幸二)の状況を伝える重要な役割である。しかし、何の前触れもなくそういう人物が現れ、和尚の頼みとはいえ、まったくゆかりのない優子に会いに行くというのは不自然すぎるのではないだろうか。大げさに言えば、推理小説の残り5ページで、ようやく真犯人が登場したのと同じような印象を与えるのだ。終章での「私」は、明らかに事件後の状況を読者に伝え、優子に面会して彼女の変化を指摘し、読者に衝撃を与えるという限定された役割のために登場させられたのである。それは、複式夢幻能の前場で、僧が登場し、里女に出会い、そのあたりのいわれや、過去の話を聞きだすという役目を終えると、霊に舞台をまかせ、舞台の右隅に控えているという僧(ワキ)の役柄と通じるものがある。
 スパナの出所は、最後まで明らかにされず不可解な場面なので、スパナは後見によってもたらされたもの、という指摘は、示唆に富んだものだとは思う。しかし、三島がそこまで意識して書いたかはもちろんわからない。私は、むしろ幸二がスパナを拾う場面が、不自然なほど詳しく、象徴的な描写をされていることに注目したい。「・・(省略)・・この世の秩序の外にあって時折その秩序を根底からくつがえすために突然顕現する物質、純粋なうちにも純粋な物質、・・(省略)・・そういうものがきっとスパナに化けていたのだ・・(省略)・・しかしわれわれの意志ではなくて、「何か」の意志とよぶべきものがあるとすれば、それが物象として現れてもふしぎはないのだ。・・(省略)・・こういう物質はどこから来るのだろう。多分それは星からくるのだろう、・・(省略)」(P42)このように、スパナの出現は「何か」の意志であり、それは星からやってくるのだと推測されている。これは、「太陽」象徴性と関係してくる。『獣の戯れ』では、太陽は神聖なもの、そしてその強い光は人間の意志や力を超えた、啓示ともいうべき外側からの意志や力をあらわしているように思われる。太陽の下では、「人間」の意志ではなく「何か」の意志が存在する。人間はいつも自分の意志で行動するのではない。むしろ、大切な瞬間には「何か」の意志によって動かされるのだ。スパナの出現は、ある意味での人間の(自分の)意志の否定をあらわしているのではないだろうか。
 意志というのは、この作品のひとつの重要なキーワードであるようだ。幸二が逸平を殺す前日、幸二と逸平は二人で散歩に出た。その途中で、幸二は逸平に「・・(省略)・・あんたを今みたいな形にしているのは、決して俺のせいじゃない。あんた自身の意志なんだからね。そうだろう?」と言っている。そして散歩から戻った後、幸二は優子に「今まで何やかやあったけど、結局、俺はこの人の言うとおり望みどおりに行動し生きて来たんじゃないのかな。それならこれからも、そうして行くほかはないだろう」と言う。これは、幸二は今まで、「自分」の意志ではなくて、「逸平」の意志いいかえれば「ほかの「何か」の意志のとおりに行動し、生きてきたのだということだ。意志は行動の裏づけである。しかし、幸二はいつも、「何か」の意志に従って行動しているのである。自らの意志なきところに主体的な行動はない、したがって、主体的な人生もない。


おわりに

 この『獣の戯れ』という作品は、主題がはっきりしている、いわゆるテーマ小説ではない。しかし、作者がテーマをまったく持たずに書いたとも言い切れない。私たち読者は、たとえ作品のテーマがはっきりしていても、していなくても、自由に読み、受容することができる。私は、この作品の主題とはいえないかもしれないが、いくつかテーマを読み取ることができた。先ほど述べた、主体的な意志の否定も、そのひとつではないかと考える。
 しかし、小西のいうように、私は邪淫がこの作品の主題だとは感じない。ひとつのテーマではあるかもしれないが、むしろその奥にある苦悩が重要なのではないか。小西が指摘したように、喜美と定次郎、喜美と清と松吉の関係は邪淫であり、後者三人は「獣」のようなおこないをすることで、安全な生き方をしている。一方、優子、逸平、幸二はそうすることができない。
 この作品の主な登場人物、優子、幸二、逸平、がそれぞれ苦悩を抱えていたように、喜美、そして定次郎も苦悩を抱いていた。そして、「この老漁夫の中に久しく持続していた粗野な苦悩は、酒が徐々に酢に変わるように、おそろしく不快な嘲笑に変質していたのだった。罪はもう霧散していた。幸二は定次郎のこれから送ってゆこうとする曖昧な混濁した余生を怖れた。」(P116)苦悩は苦悩ではなくなり、罪は霧散したが、ゆがんだまますえた苦悩は定次郎の余生までを曇らせて見せたのだろう。
 一方、刑務所にいた優子は、もとの美しさは見られず、口紅もしていないことがかのじょをさらに卑しく見せている。事件前の、濃い目の口紅をつけていた優子は、「・・(省略)・・暑さに喘いでいる口もとが、何かひっそりと、見えない苦悩の焔を吐いているような感じがする」女性であった。しかし、事件後の優子は、精神的にはほとんど死人である。口紅をつけていないことは、苦悩が消えてしまったことの象徴のように思われる。生命の焔が消えてしまったかのように。
 この作品では、何通りもの苦悩が描かれている。そして苦悩は、生きることとは切っても切れない関係であり、アイデンティティとなることすらあるのだ、ということも、私が感じたテーマのひとつである。

参考文献:小西甚一「三島文学への古典の垂跡」