2003前期セメスターペーパー
『マクベス』について
井戸端真美


   「マクベス」を読んではじめに思い浮かんだのは、「罪と罰」の主人公であるラスコーリニコフのことでした。ラスコーリニコフは、悪魔に導かれるようにして老婆殺しをしますが、マクベスも短剣の幻覚に導かれるようにして犯行を犯します。そして両者とも、殺人を犯す前に良心との葛藤があり、犯行後も後悔と言い訳を繰り返します。罪と罰を読んだとき、私はラスコーリニコフが殺人を犯したにも関わらず、ラスコーリニコフを非難する気になれませんでした。同様に「マクベス」を読んだあとも、マクベスにはなにやら同情のような気持ちを抱きました。両者とも殺人を犯しますが、罪を犯した後の心理描写があまりに率直で人間っぽくて、まるで自分が主人公を見守っているかのような気持ちになったのです。しかも彼等の野望は最後には、不毛なものとなり、彼等になんの恩恵も与えないにも関わらず、彼等は良心からの復讐に打ちのめされます。恐怖におびえ、自殺を考え、周囲とは隔絶していく姿は、痛々しい限りです。ラスコーリニコフは人間を二つのカテゴリーに分けるのですが、自分を「非凡人」と定義し、既成の秩序を踏み越え、「新しい言葉」を発するためには流血も辞さないナポレオンのような支配者になれることを証明しようとします。社会に有害な金貸しの老婆を殺して奪った金で、新しい一歩を踏み出し幾百の善行をなそうと考えますが、その行為は「目的のためなら手段を厭わない」と非難されてもしかたありません。力による闘争が社会を変革してきたとはよく言われますが、闘争を一個人の行動として見たとき、自己の利益のために人を蹴落とす姿となります。正当な方法を用いずに、人を傷つけてまでして達せようとした目的にそれほどの価値があるのでしょうか。殺人は殺人として、殺人者の胸に深くのしかかり、世間から見た卑小な自分の姿に苦しむように思えます。
 でも、自分の犯行を正当化する言葉を発しながら、彼等はなぜあれほどまでに良心の咎めを受けたのでしょうか。他者の生命を奪う殺人は、時代や国を超えて重大な犯罪として処罰されます。しかし、戦争で敵を倒すことや、死刑制度に見られるように、人を殺す行為自体が犯罪なのではありません。チャップリンの映画「殺人狂時代」の中には、「大勢殺せば勲章で、一人殺せば殺人者」という言葉もあります。つまり、殺人が罪として扱われるのは、共同体内部の人間を殺すことによって、その社会集団内の安全保障が脅かされ、社会秩序が乱されるからなのです。江戸時代、主君のあだ討ちで共同体外部の人間を殺したとしても、おそらく殺人者に罪の意識はなかったでしょう。戦争で人を殺したとしても、共同体を守るための行為なので、共同体内の倫理には反しません。したがって、人を殺しても殺された人が共同体の敵であるなら、その殺人は正当化されて殺人者は英雄という称号を与えられます。例えば昔の中国では、周辺とされる王朝とは全く関係のない民族が、武力によって天下をのっとり、新しい政権ができるといった、辺境が中心を侵略する歴史を繰り返していましたが、だれがこの大量の血の上に立つ集団に制裁を与えることができるのでしょうか。権力を握ってしまった者に立ち向かうには、力を使うしか方法がありません。そうすると、権力に手を伸ばせば届くところにある人が、「やってしまえば事が済む」と考えてしまうのも無理がありません。下克上の世の中では、全て「やったもの勝ち」、「力こそ全て」なのでしょうか。
 すこし脇道へ逸れますが、最近、ノーム・チョムスキーの「メディア・コントロール」という本を読みました。チョムスキーはアメリカが圧倒的な軍事力をもって強圧的な外交政策をしていると批判しています。国内の問題から大衆の目をそらすために、冷戦時代のロシアのように架空の敵を仕立て上げ、メディアを使った巧妙な宣伝活動により国民に恐怖を感じさせて思いのままに民主主義的に合意を作るそうです。現代においてそんなに簡単に人々は権力に動かされてしまうのかどうかは、まだ議論の余地があると思いますが、権力を持っているものは、他に対峙するときのように自らを罰することはない、という主張には納得しました。9,11でもアメリカは国連の決議を無視してアフガニスタンに空爆をしました。世界中の国の連合である国連を無視して、アメリカは威信を確立しようとしたのです。そのようなことができるということは、「テロへの報復」という大義名分はもとより、実質的な権力である軍事力や経済力があるからといって差し支えないかと思います。
 ちなみにブッシュ大統領は、イラン、イラク、北朝鮮を「悪の枢軸」と呼びましたが、これらの三国につながりはありません。イランとイラクは20年以上敵対関係にあるし、北朝鮮を入れたのは、チョムスキーによるとアメリカがイスラム諸国の反発をまねかないためにいれただけだそうです。サダム・フセインがクルド人に対して毒ガスによる虐殺などの残虐な行為をしていた時、親父ブッシュはサダム・フセインを支持していたし、イラクの民主派が議会制民主主義を確立したいとアメリカに言って支援を求めたとき、その訴えはにべもなく拒否されました。つまり、イラクがアメリカの貿易相手国だった時は、アメリカはイラク内の人権侵害に目をそむけ、イラクの民主主義運動が高まってきたら、石油利権に固執するアメリカはフセインが世界征服を目論むと吹聴しだしたのです。イラクは産業基盤を持たない第三世界の小国なのにも関わらず、そんな国が突如として世界征服を目論むのでしょうか。私の得る情報には限りがあるし、この問題について研究しているわけでもないのでよくわかりませんが、大量の画一的な情報によって流されたアメリカの正義の前には、事実はかすんで見えなくなってしまうのかもしれません。
 リア王でも、視線の大切さに話が及んだのですが、姉ゴネリルは父リア王のためならものを見る喜びを脱ぎ捨ててもいいと言っていますが、多面的な可能性のある物事を一つの始点から見るだけでは不十分です。つまり、ある価値観を信じるということは、その裏にある別の価値観によって構成される理由を見ないということにつながると思います。ユニラテラリズムにアメリカが浸っていたとしても、一個人として、リーガンがいう「最も貴重な感覚の方陣」は失いたくありません。愛さえあればといって、何も見なくていいはずはありませんし、父リア王に尽くすことは娘の義務だと心から思っていたコーディーリアは誠意が通じずリア王とともに破滅してしまいます。コーディーリアとは逆に、口先だけで、父への服従を言っていたゴネリルとリーガンは、「感覚の方陣」は強固に持っていて、決して手放そうとしませんでした。自分達の利益のために、合理性を発揮して、倫理的に酷く扱うには最も抵抗があるはずである父をも、自らの利益のために犠牲にしたのです。そして皮肉なことに、コーディーリアも彼女たちの権力にかないませんでした。そしてエドマンドをリーガンと争ったゴネリルはリーガンを毒殺した後、「だからどうだと言うのです、法は私のもの、誰が私を訴えられるというのです」と言います。シェイクスピアの作品は前期と後期で雰囲気が違うといわれますが、後期には多様な解釈が可能になる悲劇が多く書かれています。前期では時代の見通しがはっきりしていて、新興ブルジョワジーの未来は明るいもののように思われていましたが、後期になると初期資本主義の矛盾が出てきて価値観が不安定な時代になります。リア王やマクベスでは、「権力と倫理の問題」も封建時代から資本主義社会へ移行する時代が要請する重要なテーマだと思うので考えてみたいと思います。
 封建時代では王と教会がそれぞれ独立した権力体制を持っていて、王は貴族の代表で伝統からはみだすような勝手な振る舞いはできませんでした。しかし、教会の堕落が激しくなり、免罪符といったお金で買える天国への切符なるものが出回るようになると、ルターやカルヴァンの宗教改革が始まります。カルヴァンは聖書を研究して、ある結論を導きだすのですが、それは今までにない画期的で衝撃的なものでした。キリスト教では、全知全能の神が世界をつくりだしたとされていますが、神の力は計り知れなく人間には到底分かるものではないとされています。そして、人間が死んだ後もそれは仮の死であって、本当の死は世界の終わりの「最後の審判」のときにくるといいます。本当の死は魂の死であって復活もなにもありません。ただ例外として、神に選ばれた一部の人々だけが神の国で永遠の生を生きられるのだそうです。神の基準は人間には分からないし、選ばれるのか選ばれないのか、努力して意味があるのかないのかも知ることができません。基準が不明だということは、救われるか救われないかは、世界を創造した神の御心次第ということです。ということは、救われる人も救われない人も予め決まっているといってもいいかもしれないのです。このような人間の運命が予め決まっていると説く説を「予定説」といいます。この予定説に従うと、職業は神が自分に与えたものだと考えることができます。

 そろそろ話をマクベスに戻したいと思いますが、権力は権力にしか罰せられることはないのでしょうか。過去を見ても、現在を見ても、権力の暴挙はいたるところにあります。強さこそが全てなら、人々が普通に持っているはずの倫理の行き場はこの世のどこにあるのでしょうか。