2003前期セメスターペーパー
『獣の戯れ』について
細川南津子


   三島由紀夫の『獣の戯れ』は、昭和36年6月12日号から9月4日号まで13回にわたって『週刊新潮』に連載され、同年9月に新潮社から単行本として出版されたものであるが、本来は書き下ろし小説シリーズの一巻として書かれ、『仮面の告白』『愛の渇き』『潮騒』『鏡子の家』についで、三島由紀夫の書き下ろし小説の5番目の作品である。
 この『獣の戯れ』を、複式夢幻能との類似点、太陽は何の象徴として描かれているか、獣の戯れとは何をあらわしているのか、という点について考察してみたいと思う。

1、複式夢幻能との類似点
 新潮文庫版『獣の戯れ』の解説者田中美代子は、「草ぼうぼうの廃墟からたちのぼる夢の如き物語の体裁や、登場人物たちの顔の描写などに、私たちは明らかに能の痕跡をみとめるであろう」と述べている。それに対し、小西甚一は、「その指し示す方向をたどってゆくと、三島的世界の特質にかなり近づく契機が潜められているように思われる」と言っている。
 確かに、登場人物の顔に能面の面影をとらえることができるだろう。幸二は自分のことを「俺はよくできた木彫りの面のような顔をしている」と考えているし、スパナで幸二に殴られた後の逸平は、「とめどない微笑」「絶えず浮かべている微笑」と言った表現から、表情を固定しているという点で能面を想像させる。優子の顔は「丸顔で大まかな華やかな顔立ち」に「濃い目の口紅」が特徴的で、口紅については、「濃い口紅の唇を歪めて笑った」「紅の濃い唇は笑うともなしに時折歪んだ」「唇は持ち前の濃い紅を拭われていた」「濃い目の口紅があざやかに引立った」「薄い唇をいつも彩っていたという濃い目の口紅」などの表現により強調され、印象づけられる。白いだけの顔に唯一唇だけが紅い面、若女や小面、増と呼ばれる能面が、シテが若い女を演じるときに使われるのだが、優子の顔はこの若女の面と似ている印象をもつ。
 次に構成について考えてみたい。終章になるといきなり「私」が登場し、民俗学の研究者である「私」の語りが始まる。「私」がまず身分を名乗り、研究のため民族の採訪旅行に出掛けたことを告げるのは、諸国一見の僧の場合と同じだ。「私」は泰泉寺の覚仁和尚に会い、2年前に村で起こった事件の話を聞かされる。つまり「私」はワキの役を果たしているのだ。また、ワキである「私」に事件のあらすじを語る覚仁和尚の存在は間狂言である。「私」は、刑務所へ優子に会いに行く。刑務所の中で「私」が見た優子は、「実に平凡な顔立ち」で、「丸顔の大まか顔」は写真と同じだが、「決定的に若くな」く、薄い唇には紅が塗られていない。「私」は写真の上品で優美な優子とは別人のようだと感じている。若い女性を中心とする能が、複式能で前後に分かれる構成の場合、里女である前シテのほうがいくらか品の落ちる面を使うらしい。刑務所の中の優子は、前シテの里女の役に当たり、ワキである「私」との会話の後、扉の奥に消える。これは、能の中入りにあたるだろう。つまり、終章が前場であり、1章から5章・序章が、優子をシテ、幸二・逸平をシテツレとした後場だといえる。
 刑務所で「私」が会う優子は、形だけにすぎないのだと思う。優子の思いは寿蔵の中にあり、幸二や逸平と共にあるのではないだろうか。だからこそ、優子の顔の特徴であるはずの濃い口紅が優子の顔にはなく、そのかわりであるかのように、墓石の戒名に入れてある朱が「薄い唇にいつも塗られていた濃い目の唇のように見える」のだと思う。前場の優子は、生きてはいるが、精神がなくなって肉体だけという点で幽霊なのだ。
 そして、幽霊が入っていく塚、後見がしずしずと持ち出して鼓座の前に置く造り物の塚が、「3つの小さな新しい墓石」だとすれば、この作品はいわゆる幽霊能の典型にあたる道具立てを備えているといえる。
 また、小西はスパナについて、警察がいくら厳重に調査しても出所が判明しなかったのは、このスパナは折を見て後見がすっと立ち、役者のそばに置いていったものだからだと言う。言われてみれば何となくああそうか、と思わないでもないが、やはりこじつけのような感じがして納得できない。このスパナを拾う場面は、太陽が何を象徴しているかということに関係してくるので後で述べることにするが、私は、幸二が逸平をスパナで殴った確固たる理由がないのと同様に、スパナがなぜ落ちていたのかも曖昧にすることでいろいろな想像をする余地が残されていると思う。
 小西は、『獣の戯れ』は一般的な複式夢幻能のパロディだというだけでなく、『求塚』のパロディなのだと考えている。『求塚』は一人の女性をめぐる二人の男性の戦いを描いたものである。シテである菟名日乙女が、小竹田男と血沼の丈男という二人の男に愛されるが、心を決めかねて生田川に身を投げて死に、これを追って二人の男も互いに刺し違えて死ぬという話だ。後場で乙女は亡霊となって現れ、地獄での火の苦しみを訴える。そして僧が成仏を願って読経することによって、亡霊は消え失せる。この『求塚』の主題は仏教的な意味での邪淫であり、『獣の戯れ』では定次郎と喜美の関係においてそれが強調されていると小西は述べている。確かに、定次郎と喜美の関係は邪淫である。私はこの作品の中で、定次郎が、自分の娘である喜美との関係を幸二に打ち明けた場面にいちばん驚きを覚えた。意外な感じがしたのだ。また、定次郎は左手でポケットから写真を取り出している。これは、左手のタブーを感じさせる。今定次郎が喜美をどう思っているのかは、定次郎が持っている写真とともに気になるところだ。だが、『獣の戯れ』の主題も邪淫あると言い切ることには私は賛成しかねる。
 優子・幸二・逸平のマンネリ化したような、いつも苦悩を抱えている暗い関係に、定次郎と喜美の関係の話を入れることで新鮮な驚きと興味を読者に感じさせ、優子たち3人がどのようになっていくのかを気にならせる効果があると思う。清・松吉・喜美の関係も同様の効果を持っている。「友情と利害のからまった秘密の協定」、そこには全く苦悩というものが感じられない。優子・幸二・逸平の何か暗いものが漂っている関係と対比されるように、清・松吉・喜美、あるいは定次郎と喜美がいて、物語に新鮮味を持たせているのだと思う。