映画の中で構築され・崩壊し・再生する家族 松澤 佳美 |
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はじめに |
はじめに
作家江國香織、家族映画に答えて曰く「家族の再生なんて、一体誰が観たがるのかわからない。だって、人は死ぬけれど家族というものは死なない。ゆえに再生されたりもしない。家族は好むと好まざるとに拘らず、ただそこにあるのだ。」(『PREMIERE』9月号・26頁)ということらしいが、私は家族の「再生」される映画をいままでに何度も、それこそ選り好んで観てきた。家族は死なない。なるほど。しかし、再生するにあたって必ず家族は「崩壊」する。また「崩壊」するにはまず「構築」されていなければならない。家族を描く映画は数多く製作されているが、「構築」・「崩壊」・「再生」、家族の成長過程全てを描くものがあれば、その一部を見せるだけの作品もある。その中でも優れた家族映画は賞をとる。映画芸術アカデミーによるアカデミー賞では『わが谷は緑なりき』(41・受賞年度)、『サウンド・オブ・ミュージック』(65)、『クレイマー・クレイマー』(79)、最近では後に述べる『アメリカン・ビューティー』(00)などが作品賞を受賞した家族映画として挙げられる。
アメリカの誇れる監督スティーブン・スピルバーグは家族映画の熟練者である。彼の映画には常に家族というモチーフが出てくる。『E.T.』(82)や『ジュラシック・パーク』(93)は家族が力をあわせて問題を解決するストーリーが、家族という観客層に受けて娯楽大作となりえた。『A.I.』(00)は形而的な面もあり彼のそれまでの作品とは一線を画しているが、それでも中心となるのは親の愛を求める子の物語であった。そして彼が昔から映画の中で描いているのは、父親の活躍である。『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』(89)は学者としても人生においても先輩である父親が劇中幾度も主人公を註し、且つ温かく見守っている。『フック』(91)はピーターパンがいまや父親になっている、という設定である。 ところでアメリカの人々がスクリーンに投影する父親像は、何も実際的な産みのあるいは育ての親ばかりではない。「偉大なる父」とよく形容されるのは誰でもないアメリカ合衆国大統領である。『エアフォース・ワン』(96)では大統領は国の威厳を守るためテロリストと戦う。しかしその実際の動機はとらわれた自分の家族を守るためである。国を守る大統領は、国民という家族を守る父親、というわけだ。そうした父親的大統領像が顕著に出てくるのは独立戦争を描いた映画である。その名の通り『インデペンデンス・デイ』(96)ではアメリカのみならず全世界を救う大統領を描き、独立戦争で戦う父親の映画『パトリオット』(99)を製作し、どちらにも大いなるアメリカ像と偉大なる父親像をリンクさせたローランド・エメリッヒ。『パトリオット』ではメル・ギブソン演じる父親は一度離れた戦場に、虐殺された家族の復讐のため戻るのだが、最後には独立を果たし建国していくアメリカとだぶらせるように彼自身も新しい伴侶と家族とともに家を建てるシーンで終わる。
家族の姿は時代とともに変容している。今日アメリカの保守派がいう「家族崩壊」は、シングルマザーや同性愛カップルの「父親」のいない家族、人工中絶や人工授精等の生殖医療における倫理問題や、あるいはドメスティック・バイオレンス等を指すであろう。しかし、いくつかの映画は家族の崩壊を描きながらも、そうした実質的な問題は扱っていない。では一体そこにはどの様な崩壊の姿が描かれているのだろうか。 第72回アカデミー賞で作品賞他5部門において受賞の栄冠に輝いた『アメリカン・ビューティー』は、賞受けする史劇スペクタクルでも、道徳観あふれる「良心的」作品でもない、登場人物は誰一人としてまともな倫理・道徳観を持っておらず、現代の個人に潜む病理をユニークなストーリー運びと映像で見せて人々に新鮮な驚きと感動をもたらす独特な映画だ。この作品を監督したサム・メンデスは脚本を受け取ってから、それを何度も繰り返し読み、各々の回でその印象が大分違っていたという。この物語は様々なテーマを含んでいるが、劇中にでてくるアメリカ産のバラの品種名でもある題名が映画の根底に流れるテーマであり、『アメリカン・ビューティー』を語る上で「美」についての考察ははずせない。例えば唯のビニール袋が風の中、宙を舞うのは美しい、とするシーンが我々の既成概念を揺るがすとして多くのレビューが賞賛した。登場人物はその他にも早熟なアメリカン・ロリータや、裕福なライフスタイル、規律正しい世の中といったものをそれぞれ「美」と信じて邁進する。それらは心の支柱を見失った彼等にとって安心できる「無害」な「美」なのだ。こうした現代人の精神の不安を描いて、しかし『アメリカン〜』が支持されたのは、この作品が終局で「家族」の価値を問い掛けているからではないか。ラストで主人公にとっての「美」は本当に幸せだった頃の「家族」の思い出に帰結する。精神に破綻をきたした登場人物の物語を見続けた後、主人公の「家族」によって浄化された姿は安堵感をもたらして、この映画で最も感動できるシーンといっていい。しかし、彼は「家族」に安らぎを見出した後、殺されてしまう。主人公一家は「再生」を果たせないどころか事件によって「本当の崩壊」を迎えるのである。 『アメリカン・ビューティー』に似たテーマを扱っている『ハピネス』(98)はより変質・偏執的な人物が多く登場し『アメリカン〜』と同じく個人的な心の破綻を抱えている。また劇中にでてくる三ツ星高級レストラン、1880年代の復刻版灰皿、肌にいい赤み肉などは、この映画において心の支柱を見失った彼等がそれにこだわることで物質にすがっている、いわゆる「ステイタスを保つシンボル」であって、現代的な病巣の記号といえるかたちで出てくる。現在の「家族崩壊」映画にはこうした個人の病理が原因となって崩壊することが多い。昔は絆・繋がりとして「家族」が存在し、人々は家族に起因した問題を抱え、誰かが家族内で問題を起こすとそれは家族全体の問題になった。しかし、例えばアメリカでは60〜70年代に入るとかつてのカトリック・保守的な宗教の影響が色濃かった時代も終わり、人種差別撤廃運動やジェンダーの解放が進み、家族よりも個人が尊重されるようになる。そうして家族というのは解体の一途をたどるが、宗教の弱まりや不条理な戦争による国家への猜疑心は人々から信仰の対象を奪い、世の中が大量消費社会になると、今度は物質にすがり始めるが、それでは心の空虚は埋まらない。それどころかますますその心の闇は肥大化していく。そして家族とは関係のないところで噴出した悩みは、どうにもならなくなった時点で再び家族に、その拠りどころを求める。家族は最小単位のコミュニティ、生まれてはじめて属する根本的な社会であるからだ。一人で生きられない我々の、個人的に見えた問題は最終的に「家族」へと帰結していく。
イタリア映画『息子の部屋』(00・カンヌパルムドール受賞)の中の家族は実に理想的に描かれる。お互いを自立した個々の人間として認め合い、且つ愛のある家族性活をおくっている。しかし息子の突然の死によってその形はもろくも崩れる。全員が精神の均衡を失い、個人主義の中の家族像を描いて一旦は、やはりそのうまくいかない姿を見せて、家族の回復がもう見られないかと思わせる。家族が存在を知らなかった息子の彼女との対面から、ふとしたことでフランスまでその彼女を送り届けることになるとその後、彼等は国境の海辺でそれぞれ別の方向に向かって歩き始めるところで映画は終わる。このラストのシーンでは、前に向かって再び歩くことが出来た家族の姿に希望を見出すことが出来る。家族でその死を乗り越えるというかたちよりも、家族一人一人がそれぞれに息子の死を受け止め自分の中で消化することが出来、それでもそこにはいつも「家族」がいる、という理想的な家族像を、見事に再生させるのである。 『ソウル・フード』(97)の登場人物は全員黒人である。三人姉妹のうち裕福な暮らしをしているものもいるが、家族の金銭トラブルを彼女が請け負うなど、そこに描かれるのはあまり余裕のある黒人社会の姿ではない。特に前科を持つ登場人物が職にありつけないエピソードでは「これが黒人男の現実だ」といった台詞も聞かれる。この作品では最初、ビッグ・ママ(ナレーターである主人公の祖母)を支柱にして日曜にはみんなで食卓を囲む伝統を描き、家族の団結をみせるが、ビッグ・ママの入院によって家族は離散をはじめる。最後、彼等の壊れた絆を取り戻したのはビッグ・ママの隠し財産であるが、それは彼女の残した、家族への愛情でもある。遺産問題など、世間ではお金は兄弟家族の中を険悪にさせるに十分な原因となる。世の中がしばしばお金で回っていると考えられるように、最小単位のコミュニティである家族内でも、このようなお金の問題も当然発生する。この作品の、愛情によって再生された家族の姿は同時に家族が社会の縮図であることも我々に認識させる。 隣人と虚無的な情事を重ねる夫、心の空洞を埋めようと万引きを繰り返し、スワッピング・パーティーでは不倫を試みる妻、子供達は国の政治に絶望し(ウォーターゲート事件の時代を背景とする)、関心事を鬱屈したかたちで性へしか示せない、上記2作品では元々「理想的な家族の姿」があったのに対し、完璧に崩壊した家族の姿を映し出す『アイス・ストーム』(97)では、一切「理想的な家族の姿」を見せない。息子のナレーション、「家族は反物質」「人は虚空に生まれ虚空に帰る」「負の地帯に人は引き込まれる」といった台詞にこの作品の痛さがついて廻る家族像が表される。最後氷の嵐が空けた朝、隣人の息子が事故で死に、再び家族が集まった時、それぞれが抱えていた虚しさや後悔が突き出してくる。痛みを感じながらも我々はこの家族がゆっくりではあろうが、確実に再生されることを確信できるのである。
我々は映画を鑑賞することによって自分とは違う人生、異なる世界を疑似体験する。そのような感覚を味わうことがある。そうした「イベント」を求めに、それが体験したことのないようなあるいは体験し得ないようなものであればあるほど惹きつけられて人は映画館へ足を運ぶものである。よく映画は「現実逃避」などといわれるが、しかし我々は必ず、同じ人間が作り上げた虚構の中に、自分を取り巻く世界との共通項を見つける。そして体験し得ない世界観でかかれた映画の中では、その共通項の条件が自分のものと近ければ近いほど、衝撃を受けやすい。我々は、しばしばこうした興奮とも言える衝撃を、これまでに挙げてきたような「家族」についての映画からも受ける。「家族」は普遍的なものである。「家族」は誰もが経験する一番身近に起こる人生の「日常的イベント」である。さて、映画の目的が現実逃避であるのなら、我々はそのような映画を見る必要があるのか。製作側はわざわざ虚構のセットを作り、虚構を物語ってまでして、何故日常に近い経験を味わわせようとするのか。 家族は我々が世界ではじめて所属する最小単位の社会だとは今までにも述べてきた。家族は個人的なものでもあるが、我々は家族映画の中で似たような境遇や感情を見つけ出すかもしれない。そこで我々は、初めて自分を取り巻く「家族」という環境を客観視できるのではないか。映画は自分を映す鏡である。照明が落ち、幕が上がる、ほんの少しの間だけ日常から離れた世界にいるつもりになっても我々は、他人の提示する人生の形を現実と比較して、自分に関わってくる「家族」をそこに見出したとしたら、それは新たな「発見」である。我々は自分を見つめるということを決して止めない。そうした意味で、映画に出てくる「家族」というテーマは、自己探求の格好の題材として支持されてきたのだろう。我々は虚構の家族の「構築」「崩壊」「再生」を観て体験し、それとの比較を通して必ず現実の、今経ているその過程へと、自己の世界に内省してくるのである。
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