2003年度 卒業論文


『スタジオジブリと宮崎駿作品群について』

 

前園 梢

 

目 次


はじめに

1、スタジオジブリについて
  スタジオジブリとは
  スタジオジブリの歴史
  スタジオジブリの特色
  スタジオジブリの人気
2、宮崎駿監督について
  宮崎監督の歴史
  宮崎作品
  共通点1「主人公が子供」
   ・『千と千尋の神隠し』
   ・『紅の豚』
  共通点2「女性」
   ・『風の谷のナウシカ』
  共通点3「空を飛ぶ・風」
   ・『もののけ姫』

おわりに

参考文献

 

 はじめに
「アニメ大国」と言われ、海外にも多くのアニメを輸出している日本。そもそも"アニメ"とは何を指すのか。日本においてアニメは元々単なるアニメーションの略語だったが、今では「アニメ=日本製アニメーション」として世界共通語になった。アニメーションを英語で綴ると、ANIMATIONで、そのまま略すならANIMA、つまりアニマだ。しかし、カタカナの「アニメーション」を略すとアニメ"ANIME"となり、これを世界が日本から逆輸入したわけである。元々アニメーションは欧米から日本に入ってきたものだが、ディズニーなどのアニメーションを参考に追いつけ追い越せと努力を繰り返すという戦後の独自のマンガ文化と結びついて世界のアニメーションとは全く違う発展を遂げてきた。その作品群が世界中のテレビで放映されて人気が定着、日本製アニメーションのみが"ANIME"という特別の名称で呼ばれて区別され、世界のアニメとなった。
世界のアニメと言われ、また日本の代表的なアニメーション作品の1つにスタジオジブリ作品が挙げられるだろう。子供、大人問わず人気がありファンも多いジブリ作品。私自身も好きでよく観ているが、「何故こんなにジブリ作品はなぜこれほど人気があるのだろう」とふと疑問に思った。そして、そこからこの研究は始まった。日本のアニメーション界だけでなく、日本映画界にも欠かせない存在となっているスタジオジブリ。2001年に公開された『千と千尋の神隠し』は日本映画界の歴史を塗り替える大ヒット作品となり、ベルリン映画祭では金熊賞を受賞した。これは、初めてアニメーション作品が映画祭の金熊賞を受賞したという歴史的出来事である。また、ロサンゼルス映画批評家協会はこの作品をアニメーション部門の最優秀作品に選び、アカデミー賞を主催する米映画芸術科学アカデミーが決定した長編アニメーション賞の対象作品17作品の内に『千と千尋の神隠し』が選ばれている。このように、世界中で大きな評価を得ているスタジオジブリ作品。スタジオジブリ作品は監督によって宮崎駿監督が作る「宮崎作品」と高畑勲監督が作る「高畑作品」に分けられることが多い。その中でも圧倒的人気があるのは宮崎作品である。宮崎監督はハリウッドの大物監督からも尊敬を受ける程の名監督であり、アメリカだけでなく、日本においても多くのファンを持つ。今や宮崎監督は日本を代表するアニメーター、演出家と称されることが多く、スタジオジブリはもちろんのこと、それ以上に日本を代表する演出家となった。その結果、「宮崎アニメ」というだけで観客を集められる程の絶対の信頼を観客から得ている。
はじめは「人々を魅了するジブリ作品の秘密を探りたい」と思っていたが、この研究を進めていくにつれ、自然と宮崎駿監督の方へと興味が向いた。監督の作品がどんな思いで作られ、何を表現しているのか。監督が言いたいことは何なのか。また、作品から観客は何を感じるのだろうか。まず、1章においてはこの研究の発端である「ジブリ人気」について、スタジオジブリの歴史から作品、特色を調べ、そこにあるジブリ人気の要因を調べたい。2章においては宮崎監督に焦点を当て、監督の歴史、作品、そこにある様々な共通点を探り、監督の思いを読み取っていきたい。
1.スタジオジブリについて
・スタジオジブリとは
 1985年、徳間書店によって設立された、宮崎駿氏・高畑勲氏を主宰とするアニメーション製作スタジオ。ジブリ"ghibli"とは「サハラ砂漠に吹く熱風」と言う意味で、「日本のアニメーション界に旋風を巻き起こそう」という気持ちが込められている。第2次世界大戦中、イタリアの偵察戦闘機が名前に使用していて、飛行機マニアの宮崎駿氏がこのことを知っていて、名付けた。(スタジオジブリホームページより)
目指すものは「リアルでハイクオリティなアニメーション作りー人間の心理描写に深く入り込み、豊かな表現力で人生の喜びや悲しみをありのままに描き出すー」(スタジオジブリホームページより)。それにはテレビという予算的にもスケジュール的にも制約の大きい媒体では不可能であるという結論に達し、これがジブリ設立への原動力となった。

・スタジオジブリの二人の監督
ジブリの製作姿勢は宮崎駿氏、高畑勲氏という二人の監督を擁し、「監督中心主義で予算とスケジュ−ルをかけて一作一作に常に全精力を注ぎ込み、隅々までしっかり目の行き届いた妥協のない作品を目指して作ること」である。
それぞれの監督の作品の特徴としては、宮崎監督は有り得ない出来事をありありと描くファンタジー。完成された別世界へ観客を誘う。自然環境をテーマにしたものが多い。
高畑監督は日常的でありふれたものを再発見し、刻印する。現実へ還るようにと観客は背中を押される。現実の社会問題と向き合う傾向が強い。(スタジオジブリホームページより)

・ジブリ劇場作品(表1)(注1)
  『作品名』   公開年月日     "キャッチコピー"  
*宮崎監督作品
・『風の谷のナウシカ』1984/3/11  "少女の愛が奇跡を呼んだ"
・『天空の城ラピュタ』1986/8/2 "ある日、少女が空から降ってきた"
・『となりのトトロ』 1988/4/16 "このへんないきものはまだ日本にいるのです、たぶん"
・『魔女の宅急便』  1989/7/29 "落ち込んだりもしたけれど、私はげんきです"
・『紅の豚』     1992/7/18 "カッコイイとは、こういうことさ"
・『もののけ姫』   1997/7/12 "生きろ"
・『千と千尋の神隠し』2001/7/20 "トンネルのむこうは、不思議の町でした"
*高畑監督作品
・『火垂るの墓』   1988/4/16  "4歳と14歳で生きようと思った"
(この作品は『となりのトトロ』と併映)
・『おもひでぽろぽろ』1991/7/20 "私はワタシと旅にでる"
・『平成狸合戦ぽんぽこ』1994/7/16 "タヌキだってがんばってるんだよォ"
・『となりの山田くん』 1999/7/17 "家内安全は、世界の願い"
*その他の監督
・『耳をすませば』  1995/7/15  "好きなひとが、できました" 
  →監督は近藤喜文氏。脚本・絵コンテ・製作プロデューサーは宮崎駿氏。
・『猫の恩返し』   2002/7/20  "猫になっても、いいんじゃないッ?"
  →監督は森田宏幸氏。企画は宮崎駿氏。

  ・スタジオジブリの歴史
『風の谷のナウシカ』の成功により、1985年、『天空の城ラピュタ』制作時にスタジオジブリ設立(吉祥寺)。1988年『となりのトトロ』『火垂るの墓』の二本立て上映。興行的にはそれほど成功しなかったが、内容的に高い評価を受け、この2本によりジブリは日本映画界にその名を広く知られるようになった。つまりファン層の拡大である。その次の『魔女の宅急便』では初めて興行的に大成功を収めた。この時、今後のジブリ体制が話し合われ、従来の「出来高制」を「固定給」にし(スタッフの賃金倍増が狙い)、スタッフの社員化と新人採用、人材育成が提案され、その結果、映画を作り続ける使命を負った。
そして1991年、新体制のもとでの第一作目『おもひでぽろぽろ』もその年の邦画No.1となり、すぐさま『紅の豚』の制作に取り掛かった。その時にスタジオが現在の小金井市に移転。その後『海がきこえる』、『平成狸合戦ぽんぽこ』、『耳をすませば』が制作された。そして1997年、本格的にCGを使用した『もののけ姫』が2年の歳月をかけ制作され、それまでのジブリ作品の中で最もヒットした作品となった。1999年の『となりの山田くん』は全編フルデジタルで制作されたが興行的には失敗に終わり、そして2001年、『千と千尋の神隠し』は『もののけ姫』を抜く大成功を収めた。(下の表参照)
       作品名 配給収入
『風の谷のナウシカ』 7億4200万円
『天空の城ラピュタ』 5億8300万円
『火垂の墓』 5億8800万円   (同時上映)
『となりのトトロ』
『魔女の宅急便』 21億7000万円
『おもひでぽろぽろ』 18億7000万円
『紅の豚』 27億1300万円
『平成狸合戦ぽんぽこ』 26億5000万円
『耳をすませば』 18億5000万円
『もののけ姫』 113億円
『となりの山田くん』 8億円(推定)
『千と千尋の神隠し』 300億円(興行収入)
 (http://www.mars.dti.ne.jp/~yato/ghibli/st_ghi.htmより)

・ スタジオジブリの特色
スタジオジブリの特色として「内容的評価」と「興行的成功」の両立、が挙げられる。「内容的評価」としては「作品的完成度の高さ」「常に現代性を第一に考えたテーマ設定」「高度な技術による高品質な映像(CG、フルデジタル製作)」がある。その中でも「作品的完成度の高さ」については目を見張るものがある。

以下は宮崎作品における作画の作業工程である。
1.絵コンテ→宮崎監督によって描かれる。カメラワーク、特殊技術、カットの秒数など徹底的に緻密な絵コンテ。大まかな演技設定がなされる。最終セリフもここで絵作りと並行される。
2.レイアウト→正確な人物、事物、背景の空間と位置関係と動きの要点把握を意図して行われる。大多数のアニメーションではこのような行程を全カットで行うことは有り得ない。
3.原画→コンテを具体的な動きにする作業。動きの速度、演技の計算はこの段階でほぼ決まる。
4.ラフ修正→宮崎監督によって描かれる。演技設計の微妙な差などをラフで描き直す
5.ラフのクリンアップ→監督のラフ修正をきちんとした線に拾い直し清書する作業。
6.最終原画→キャラクターの細かい部分や演技の最終チェックなど。大多数のアニメーションでは原画からこの作業へ直結し、4〜5は省かれる。
7.動画→原画と原画の間を指定枚数に沿って描く作業。
8.動画チェック→動画の仕上がりチェック。
これだけの作業を何千枚も繰り返すのである。それは想像をはるかに超える膨大な作業であるが、「いい作品を作る」という思いのもとでこの作業は行われている。また、ジブリ作品は数多くの色彩を使っていて、作品ごとに新しい色を生み出しているという。例えば、『もののけ姫』ではセル数は144,043枚、色は580色と、他のアニメーションの何倍ものセル画、色を使用している。

「興行的成功」とは、過去に積み上げた実績、つまり前作の成功が次の作品の興行的成功を生む、ということある。これは「スタジオジブリの作品ならおもしろいだろう」という観客の信頼の表れだろう。実際、『千と千尋の神隠し』上映の時、配給会社である東宝が観客に見にきた理由(複数回答)としてアンケートをとった結果、「宮崎駿の作品だから」が62.4%と最も多く、次いで「スタジオジブリの作品だから」(43.0%)という答えだった。
また、確たる方針で展開される大規模な宣伝も成功の理由の一つだろう。テレビによる広範囲なパブリシティ展開として、『魔女の宅急便』から製作に日本テレビ放送網株式会社が加わった。そのことで、日本テレビの多くの番組で無料で作品を紹介してもらえ、映画公開前には特集を組んでもらったり、また以前のジブリ作品を放送してもらい、その合間に流れる次回作の予告映像はいやおうなしに人々の最新作への興味をかきたて、映画をイベント化し「この夏絶対見た方がいい話題の中心」という空気を作り出すのである。(表1参照)。その結果、『魔女の宅急便』はそれまでのジブリ作品の中で最高の配給収入を記録し、その年の日本映画最大のヒットとなった。

また、大企業とのタイアップ宣伝も大きな効果を上げている。『魔女の宅急便』ではヤマト運輸、『おもひでぽろぽろ』では食品業界大手のカゴメとミシンのブラザーミシン、『紅の豚』では日本航空、『平成狸合戦ぽんぽこ』と『耳をすませば』では保険の大手JA共済、『千と千尋の神隠し』ではネスレやローソンとタイアップした。これらは広告代理店の博報堂や電通がコーディネイトしてくれる。ジブリ作品は、世間的によい印象を強く持っているため、相手企業がジブリ作品を応援することで、自分たちの会社にとって大きなイメージアップにつながるという意識を持っているので、単なる相乗り広告という枠を超えて、ジブリ作品のPRの要素を積極的に大きく打ち出した宣伝を行ってくれるのである。
雑誌や新聞等での一般のパブリシティ展開も非常に重要で、専門のパブリシティ会社に委託し、積極的に各編集部に働きかけることで、好意的な記事を書いてもらうのである。こういう場合でも、今までの実績が重要になり、特に第一線の記者・編集者たちは子供の頃から宮崎監督や高畑監督のアニメーションに親しんできた人たちが多く、好意的にジブリ作品を捉えるのが強みである。このような活字媒体での一歩踏み込んだ記事展開は宣伝の大きな援護になるが、こういった宣伝の場合、子供だけをターゲットにした宣伝を行うのではなく、女性層をもターゲットにした、子供から大人までの広範囲の宣伝を展開する必要がある。大ヒットの為には子供だけでなく、若い女性や親子を動員することが必要なのだ。例えば『魔女の宅急便』では、子供だけではなく、現代女性にも通じる一人の少女の自立の物語だったので、女性層を意識した宣伝を行い、大きな効果を上げた。
最後に、「ジブリ作品ヒットの秘密」と映画関係者の多くが言うのが、1989年の『魔女の宅急便』以来続けているジブリの恒例行事、「作り手が自分の口で作品を語る」ことである。作品の魅力が隅々まで伝わるこの戦略はジブリ独自のもので、例えば1999年の『となりの山田くん』では高畑監督と鈴木プロデューサーが7月1日から2週間かけて北海道から熊本まで完成フィルムとともに全国を回った。

・みんなジブリ好き?(注2.)
私の周りの友人に「ジブリ作品は好きか?嫌いか?好きならどこが良いのか?」という質問をしてみた。「嫌い」という人は私の周りにはいなく、全員が「好き」と答えた。以下はその理由である。
 好き!→・「ジブリ作品」というネームバリュー。「ジブリ作品」=「良い映画」。
・大人子供誰でも見られる、年齢の壁のなさ。
・ 何回見ても飽きない→年齢によって感じ方が違ってくる。         
 ・一番心に残る、好きな映画。 ・音楽が好き
・ いろんな世界へ連れていってくれる。

・私の考えるジブリの人気の要因
 以上のことから、ジブリ作品の人気の秘密を私なりに考えてみた。
1. 作品の内容的魅力(ファンタジーを楽しむ)
2. キャラクターの魅力(ナウシカやトトロなど・・・)
3. 音楽の魅力
4. 絵の美しさ。作画の丁寧さ(上記の作画の作業工程参照)

以上がスタジオジブリの歴史、作品、特色、そして私の思う人気の要因である。

2、宮崎監督作品について
まずは、宮崎監督がスタジオジブリを設立するまでの歴史をこれまで関わってきた主な作品と共に振り返ってみる。

宮崎駿監督は1941年1月5日生まれ。59年学習院大学政治経済学部に入学し、63年卒業。同年東映動画(現在は東映アニメーション)に入社。66年『太陽の王子ホルスの大冒険』に参加し、場面設計・原画を担当する。71年東映動画を退社し、高畑勲氏、小田部羊一氏と共にAプロ(現在はシンエイ動画)へ移る。73年劇場用中編『パンダコパンダ 雨降りサーカスの巻』の脚本・画面構成・原画を担当。その年に高畑、小田部両氏と共にズイヨー映像へ移籍。74年テレビシリーズ『アルプスの少女ハイジ』の場面設定・画面構成を全52話担当。76年テレビシリーズ『母を訪ねて三千里』の場面設定・レイアウトを担当。78年NHK初のテレビシリーズ『未来少年コナン』の演出。79年東京ムービー新社へ移り、劇場用長編作品『ルパン三世 カリオストロの城』を初監督。82年マンガ『風の谷のナウシカ』の連載開始。その年に東京ムービー新社を退社。83年『風の谷のナウシカ』の映画化始動。84年映画『風の谷のナウシカ』が完成し、個人事務所「二馬力」設置した。そして85年スタジオジブリを吉祥寺に設立。92年に現在の小金井にスタジオを移し、現在に至る。(『日本のアニメ』より)
これまでの宮崎監督の劇場版長編アニメ−ションを年代順にあらすじと共に以下に並べた。

・1979年『ルパン三世 カリオストロの城』
監督・脚本・絵コンテ/宮崎駿。原作/モンキー・パンチ
贋札「ゴート札」の出所を追ってヨーロッパのカリオストロ公国にやってきたルパンと次元は、そこで何者かから逃れようとする花嫁姿の少女クラリスを助ける。クラリスは亡くなった大公夫妻の息女で、摂政である伯爵との謀略結婚が定められていた。かつて幼い彼女に命を助けられたルパンは、クラリスを伯爵の手から奪略し救うべく、カリオストロ城へ潜入し、そこで城の大きな秘密を目撃する。手に汗握るストーリー展開、緻密で重層的な舞台設定、ルパンの大跳躍、時計塔の大活劇、水中から出現するローマ遺跡やルパンとクラリスの切なくも爽やかな別れなど、絶え間なく観る者を惹きつける。宮崎監督初の映画監督作品。

・1984年『風の谷のナウシカ』
原作・脚本・監督・絵コンテ/宮崎駿
巨大産業文明が崩壊してから1000年後、わずかに残った人類は有毒を振りまく「腐海」に脅えながら暮らしていた。辺境の村「風の谷」の長の娘・ナウシカは腐海の主・王蟲と心を交わせる不思議な能力を持った少女。ある日、村に侵攻してきた軍事国家トルメキアは風の谷へ侵攻し、旧世界の最終兵器・巨神兵を甦らせ、世界を統率しようと企んでいた。トルメキアに国を奪われたペジテ軍が、王蟲の怒りを利用して風の谷を襲わせ、トルメキア軍を破滅させようとしていることを知ったナウシカは、一人それを阻止しようとする。ナウシカと王蟲との心の交流を軸に、人間のエゴや環境問題など現代社会の病理に踏みこんだ深刻な展開が、社会的な大反響を呼んだ。 現在に至るいわゆる「宮崎アニメ」の出発点となった作品。

・ 1986年『天空の城 ラピュタ』
原作・脚本・監督・絵コンテ/宮崎駿
19世紀初頭。炭鉱の街で働くみなしごの少年パズーの前に、突然空から一人の少女が降りてきた。少女シータの胸に光るものは、空を飛ぶ力を持つ「飛行石」だった。この石が、かつて地上の国々に君臨し、今も空中を漂い続ける「ラピュタ帝国」の謎を秘めていることを知る軍の特務機関のムスカはシータを捕らえる。だが、パズーは同じく飛行石を狙う空賊と協力し、シータの救出に成功。ラピュタの正体を知るために船に乗り込んだ2人は嵐に巻き込まれ、導かれるように天空の城ラピュタを発見する。スウィフトの「ガリバー旅行記」に登場する空中の浮島・ラピュタをヒントにした、宮崎駿氏オリジナルストーリーによる一大冒険活劇。

・ 1988年『となりのトトロ』
原作・脚本・監督・絵コンテ/宮崎駿
昭和30年代のとある農村。考古学者である父親とともに、「おばけ屋敷」と呼ばれている廃家に引っ越してきたサツキとメイの幼い姉妹は、母親が入院のため不在であることにもめげず、豊かな自然やおもしろい生き物たちと触れ合い、日々をたくましく生きていく。やがて塚森の中にいる不思議な生き物・トトロと友達になった姉妹は、夜空を風になって飛ぶ夢のような冒険を味わう。久々に母親が帰宅するはずだった日、体調の異変を知らせる電報が病院から届く。そんな中メイが迷子になり、サツキはトトロにメイを探して欲しいと頼む。四季の自然の美しさを背景に、考古学者のお父さん、サナトリウムで静養中のお母さん、優しいお婆ちゃん、純情少年カン太、そして風のように疾走するネコバスなどの優しく暖かな印象を残すキャラクターたちが登場し、姉妹とトトロとの心温まる交流を描いたファンタジーアニメの傑作。

・ 1989年『魔女の宅急便』
プロデューサー・脚本・監督・絵コンテ/宮崎駿 原作/角野栄子
13歳になった魔女のキキは、魔女として一人前になるために、見知らぬ街で自活しなければならない。修行のために自分の住む街を探したキキは、パン屋の夫妻宅に下宿し店を手伝いながら、空を飛べるという自分の才能を活かして宅急便の仕事をすることにした。新しい生活を持前の明るさで切り開いていこうとするが、人とのすれ違いや自活の辛さに次第に自信を失くしてしまう。そしてある日、キキは魔法が弱まりジジと話せなくなり、遂には空を飛べなくなってしまった。同名の児童文学だった原作を一人の少女の自立物語へと引き上げ、「空を飛べる」というのを一つの才能と捉え、社会で働く女性たちへのエールを贈った映画。

・ 1992年『紅の豚』
原作・脚本・監督・絵コンテ/宮崎駿
1920年代、第1次世界大戦後のイタリア、アドリア海。元空軍のエースパイロットだったが、自らに魔法をかけて豚に姿を変えたポルコ・ロッソは、愛機で空を駆け回り賞金稼ぎで日々暮らしていた。ところが、空賊連合が雇ったアメリカの飛行艇乗りカーチスに愛機を大破され、ミラノのピッコロ社に修復を依頼する。しかし、ファシズムの台頭下その存在を狙われたポルコは、設計担当の17歳の少女フィオを乗せて急遽アドリア海に戻る。そこでポルコは、再びカーチスとフィオの結婚を条件に修理費用をかけて決闘をする羽目になる。宮崎流のかっこいい生き様を描いた、大人のためのメルヘン。

・ 1997年『もののけ姫』
原作・脚本・絵コンテ・監督/宮崎駿
室町時代中期。東の果てエミシ一族の里をタタリ神が襲い、その呪いを受けた青年アシタカは、呪いの真実を求めて西へ向かう。途中「シシ神の森」の存在を知り向かったアシタカは、タタラ場を営み森を切り拓こうとするエボシ御前と、森を守ろうとする「もののけ姫」と呼ばれる少女サンとの闘争に遭遇する。サンと出会ったアシタカは、人と森が共に生きていく道はないかと悩む。しかし、不老不死の力を持つシシ神の首を狙う天朝と師匠連の動きで、エボシはついに神殺しを実行し、アシタカとサンはそれを止めようとシシ神のもとへ向かう。『風の谷のナウシカ』から再び人間と自然との関わりをテーマに挑んだ大作。

・ 2001年『千と千尋の神隠し』
原作・脚本・監督・絵コンテ/宮崎駿
10歳の少女千尋は引越しの途中、両親とともにトンネルの向こうにある不思議な町へ迷いこむ。そこは古くからこの国に棲む様々な神様が訪れる温泉街だった。両親を豚にされ途方に暮れる千尋を、謎の少年ハクが助ける。両親を元の姿に戻し、人間の世界へ帰れる方法はただ一つ。それは町にある巨大な湯屋「油屋」を経営する湯婆婆のもとで働くことだった。ボイラー焚きの釜爺や年上の少女リンの協力でどうにか湯婆婆に働くことを許された千尋は、名前を奪われ「千」という名前で働くことになり、様々な困難に立ち向かっていく。無気力な少女が、異界で次第に生きる力を発揮していく冒険ファンタジー。

宮崎作品の特徴
宮崎監督の作品の特徴を探る上で、まず、監督の作品を物語のタイプ別に2つに分けた。
@ 親のいない主人公が試練を課せられ、周りに支えられながらその試練を乗り越え、成長する。(『風の谷のナウシカ』『となりのトトロ』『魔女の宅急便』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』)
A ヒーローがヒロインを悪から救う(『ルパン三世 カリオストロの城』『天空の城ラピュタ』『紅の豚』)
『となりのトトロ』(以下『トトロ』)は、両親ともに存在はしているが、母親においては病気で家には不在である。父親も考古学者でたまに大学で教えに行くという仕事ゆえに、家を空けることがある。そうすると必然的に主人公の姉妹2人だけになってしまう。そういった中、隣の家のおばあちゃんはいつも姉妹を助け、支え続けている存在であるから、@の分類に当てはまるのではないかと考えた。
また、『紅の豚』もAのグループに属しないように思えるが、物語をとき解いてみると、主人公ポルコが悪(とは言いがたいが)カーチスから結婚を迫られているヒロイン、フィオを救うために戦う(飛行艇で決闘をする)という構図は、Aにあてはまるのだろう。また、『天空の城ラピュタ』(以下『ラピュタ』)も『ルパン三世 カリオストロの城』(以下『カリオストロ』)もヒロインは悪から婚姻関係を迫られている。ヒーローはそこからヒロインを救うために戦うのである。そういった共通点からも『紅の豚』はAの分類に当てはまるのではないかと考えた。

分類してみると、宮崎作品にはいくつかの共通点が見えてくる。それは
1.「主人公が子供」
2.「女性」
3.「空を飛ぶ・風」
の3点である。これらの共通点は何を表しているのか。まずは1.「主人公が子供」について考えてみたい。

・宮崎作品の共通点1…「主人公が子供」
宮崎監督は作品に対して一貫して言っていることがある。それは「子供のために作品を作る」ということだ。これはあらゆるところで述べられていて、宮崎作品のみでなく、ジブリ作品でもこの主義は貫かれている。ではなぜ監督はそこまで子供にこだわるのか。大人が主人公ではなぜいけないなのか。そこには監督自身の子供の頃の体験が関わっていた。
 監督は自らをこう語る。「父親は軍需工場の工場長をしていたため景気は良く、応召も免れていた。しかし敗戦後、母親に敗戦時の変節を理由に、『人間は仕方のないものだ』と不信とあきらめを吹き込まれ、表面は聞き分けのよい子だったが、内心はひよわで小心な少年だった。戦記ものに引かれ片っ端から読み、勝ち話の裏に隠された日本軍のあらゆる愚かさに心底落胆し、日本を嫌いな少年になっていた。東南アジアの国々への罪の意識におののき、自分の存在そのものも否定せざるを得なくなり、アニメーションの世界を志した時は、不条理劇でも描こうと思っていたが、高校3年生の時『白蛇伝』を見て、口をつく不信の言葉とは裏腹に本心では、安っぽくてもひたむきで純粋な世界に憧れていることに気づいた。世界を肯定したくてたまらない自分がいるのをもう否定できなくなっていた。」(『出発点』p100,267より)
そういった子供時代の苦悩や悩みに満ちていた体験への代償として、監督は素直でおおらかな子供を描くのだろう。自分の体験を元に、子供たちへ励ましのメッセージを送っているのだ。
「世界を肯定したい」という思いは、「どうせ世の中はこんなものだ」と嘆き諦めるのではなく、「世の中捨てたもんじゃない」と、世の中に希望を持てることを意味するのだろう。現実の世界では必ずしも愛や友情や正義が肯定されるとは限らない。裏切りはある。それでもどこかでその存在を信じたいと人、特に子供は思う。しかし、それは教師や親が「それはあるよ」と説教して伝わる程甘くはない。宮崎作品はそこを踏まえ、存在しているのだ。作品中で、愛や正義や友情が裏切られることはない。例えば、『風の谷のナウシカ』(以下『ナウシカ』)においてはキャッチコピーにもあるように、ナウシカの愛によって世界は救われた。そして、ナウシカ自身も王蟲の愛によって蘇った。また、有毒な瘴気を出している腐海も、実は人間たちが汚した空気を浄化してくれる巨大な空気清浄装置だった。これも腐海(自然)の愛である。『ラピュタ』では、破壊の呪文によりラピュタは破壊されムスカは死んだが、同じように内部にいたパズーとシータはラピュタ中心部の木の根っこに守られ無事だった。これは主人公2人の正義の勝利を意味する。『もののけ姫』においては、シシ神は殺され、森は死んでしまったように見えたが、最後にはシシ神の愛で再び森は蘇った。
このように作品において愛や正義は存在し常に肯定され、それは観ている人をどこか安心したような幸せな気持ちにさせる。アニメーションという虚構の世界において、虚構は作品の中では真実である。その真実を目の当たりにした子供たちは「所詮はアニメ」と思いながらも「こういうのもあるんだ」と思えるのではないか。そう思わせるために、監督の作品の映像はリアリティを持つ。現実には在り得ないような話でも、宮崎作品の持つ抜群の表現力にのめり込み、風が吹けば、木々も服も髪の毛もがリアルに揺れる緻密な映像。飛んでいたら自分も飛んでいるようなスピード感。光の当たる具合などを計算に入れた多様な色彩。そして、登場人物たちの心情をよく捉えている描写。特に『トトロ』での姉妹の描かれ方には驚いた。最初に引っ越してきたシーンで、メイがお姉ちゃんであるサツキの後について走り回り、サツキの行動を繰り返す。また、お母さんの病院にお見舞いに行った時、サツキがお母さんに対してはにかんでいるところもさすがだと思った。お母さんと離れて暮らしていて、本当は甘えたいけど、しっかり者のサツキは妹が見ている手前素直に甘えられなくて、妙に恥ずかしくなってしまうのだ。また、2人が喧嘩して、部屋の中で2人してふて寝しているシーンも子供にはよくある行動だ。このような、ちょっとした心の動きを見逃さない観察力と素晴らしい表現力によって作品にリアリティを持たせている。それにより子供たちは作品を観て自分の心で「こんなことあるかもしれない」と肯定的な気持ちを抱くのだ。子供だけではない。大人もきっとそう感じるだろう。だから子供に限らず大人からも人気があるのだ。

子供たちへのメッセージ…『千と千尋の神隠し』
監督は常に子供のことを考え子供のために作品を作ってきた。そういった点では『千と千尋の神隠し』(以下『千と千尋』)はまさに現代を生きている子供たちへのメッセージである。「曖昧になってしまった世の中というもの、曖昧なくせに、侵食し喰い尽くそうとする世の中をファンタジーの力を借りて、くっきりと描き出す」(『千と千尋』劇場用パンフレットより)という主題のもと、冒頭で見せる千尋のぶぅたれた顔はまさに今の子供たちそのもの。囲われ、守られ、遠ざけられて、生きることが薄ぼんやりにしか感じられない日常の中で、ひよわな自我を肥大化させるしかない子供たちの、どこか無気力になっている顔だ。その子が自分の名前を奪われ、自分が生きていくために、両親を助けるために働く。最初は無気力が漂い臆病だった千尋が、仕事に懸命に取り組み皆に認められたことで、次第に生き生きと輝いてきた。どんなことでも一生懸命取り組み、ハクを助けるために崩れそうなパイプ管の上を走る勇敢な行動、帰れるか分からない銭婆の所へ向かい、きちんと謝ってくると言う千尋の凛々しさは冒頭の千尋とは全く別人だ。これが「現実がくっきりし、抜き差しならない関係の中で危機に直面したとき、本人の気付かなかった適応力や忍耐力が湧き出し、果断な判断力や行動力を発揮する生命を自分が抱えていることに気付くはずだ」(『千と千尋』劇場用パンフレットより)ということだろう。
また、この物語において名前は重要な位置を占める。千尋が働く時、湯婆婆に名前を奪われ「千」という名前を与えられた。名前を奪われることで支配され、自己を失った。名前とは自分が自分であることの証、つまり自分を認識するための一種の記号である。それを奪われたということは、自己を失うということだ。実際、千尋が自分の本当の名前を忘れかけて驚く場面がある。また、銭婆が「自分の名前を大切にね」と、ハクが「自分の名前を思い出したから大丈夫」と言う。これらは大人からの支配に屈せず、自己を見失わないように生きていって欲しいという監督の願いかもしれない。
物語のラストで両親をちゃんと見極めることができた千尋は、この物語における成長の証だろう。物を見極めるという力。これを監督は今子供たちに求めているのではないか。「現在はアニメーションの洪水みたいな状況におかれている。テレビの前に座っているだけで、膨大な量のアニメーションがなだれ込んできている。言わば、アニメーションの大量消費時代」(『出発点』p152より)と監督が子供とアニメーションの関係に警鐘を鳴らしているように、今、テレビではひっきりなしに多様な情報が流れている。ただそれを受身で受け取り飲み込まれるのではなく、自分自身で良いものと悪いもの見極めをつけ、良いものを見て欲しいという監督の願いがこめられているのだろう。
そしてそんな日本のアニメーション状況において「そんなにたくさんのアニメーションが子供の生活にとって必要だろうか」(『出発点』p77より)と監督自身も悩んでいる。そんな思いを抱えながらも作品を作っている、というその狭間にいるジレンマ。それが子供のために本当にいい物を作らなければいけない、と宮崎作品をよりよいものへと高めていく原動力だろう。

大人の主人公の理由…『紅の豚』
「子供は可能性を持っているということで、それがいつも敗れ続けていくっていう存在だから、子供に向かって語るのに値する。もう敗れきった人間(大人)には、何も言う気は起きない。大人を主人公にするとしたら、ものすごくどうしようもない奴になり、話も暗くなる。回復可能なもの以外は出したくない。」(『黒澤明、宮崎駿、北野武』p115より)と語っていた監督がきっと最初で最後、中年を主人公にした作品がある。それが『紅の豚』だ。
この作品はあらすじにも書いたように、中年の豚が主人公の話。なぜ監督はあれだけ「大人を主人公にして作ることはない」言っていたのに中年を主人公にしたのか。この時、監督にはどんな変化があったのか。

『紅の豚』製作中の1991年というのは湾岸戦争が終り、80年代から90年代へと移行し、バブルがはじけた時。スタジオジブリとして『おもひでぽろぽろ』を出した年だった。その『おもひでぽろぽろ』が監督の中で崖っぷちの作品となった。この作品が自分たちのやってきた路線の最後であり、これからは違う路線で行かなければならない、という考えが生まれたのだ。これまで監督は「管理社会に食いつぶされるな」という作品を作ってきたが、「この管理社会がバブルだってこと、また、どこかでバブルの勢いを自分達も借りてやっていたんだということに気付いた。そのせいで、この1,2年の政治変動はものすごい大きなものとして降りかかり、しばらくどうしたらいいのか分からなかった」(『黒澤明、宮崎駿、北野武』p185,198より)。そしてそれは、「これから自分はどう生きていけるのか」というもっと本質的な映画を作ろうという決意に変わった。では幸運の80年代は終わり、苦闘の90年代の幕開けは一体どこへ進むのか。

そういうところから『紅の豚』は作られた。苦闘の90年代へ進むための言わばモラトリアム作品であり、リハビリ作品なのである。元々JALの機内上映用に作られたと言うこともあってサラリーマンを意識して作られた、「疲れて脳味噌が豆腐になった中年男のための、マンガ映画」(『演出覚書』より)である。中年男のための、と書いているが、この作品は宮崎監督のプライベートな要素が強く表れているテーマであり設定である。
まず、飛行機マニアの監督ならではの飛行艇乗りの物語。そして主人公の豚。監督はよく豚を描く。豚が好きなのかわからないが、監督のよく描く飛行機の絵には監督の分身のような豚が描かれている。監督自身、自分をよく豚の絵にして(例えて)描いている。また、「徹夜はするな。肌に悪い」とフィオに言うこのセリフも、スタジオジブリを新しく移転した時に女性用のトイレを広く使いやすく設計したという監督の女性への心遣いを思い出させる。アドリア海の小さな孤島でのんびりと暮らす主人公。監督自身、休みになるとよく信州にある山小屋へ行ってのんびり過ごして休むという。忙しい日々から自分自身をリフレッシュさせるために早く山小屋に行きたい!という願望の表れだろう。また、これは「自分だけの秘密基地を持ちたい」という男の人なら誰もが持っているような願望でもあるだろう。ちなみに、『紅の豚』はよく「男のロマン」と言われる。その所以は、飛行機を乗り回し、自分だけの秘密の場所を持ち、綺麗な女性に想われ、自由気ままに生きている主人公ポルコの生き方にあるのか。
以上より、この作品は監督のために作られた作品と言ってよいだろう。自分自身を整理し、これからを生きていくために作られた作品なのだ。

また、『紅の豚』以前の宮崎作品は一定の課題を設定してその課題をクリアすることによって終わるというパターンだったが、この作品には課題がない。そしてカタルシスもないのだ。これまでの作品にはカタルシスという結末が必ずついていた。『紅の豚』以前の作品の結末を振り返ってみると、『カリオストロ』ではルパンがクラリスを救い、悪である伯爵は死んでクラリスは晴れて自由の身になれたことで物語は終わった。『ナウシカ』では王蟲の怒りを身を持って鎮めたナウシカが王蟲の愛により再び蘇るというまるでキリストのような結末で終わった。(実際神ではないにしろ、「青き衣を纏いて金色の野に降り立つ」伝説の人であったことに間違いはない)。『ラピュタ』では破壊の呪文によりラピュタは破壊され、悪であるムスカは死んだ。同じくラピュタの中にいたパズーとシータはラピュタの根っ子に救われ生還した。『トトロ』では迷子になったメイがトトロのおかげで見つかり、病気のお母さんも帰ってきて家で家族4人仲良く暮らすというという結末がエンドロールで示されている。『魔女の宅急便』は魔法が使えなくなったキキが友達のトンボを助けるために、母からもらった箒ではなく、隣のおじさんが持っていたデッキブラシを使って飛ぶことがで、魔法の力を取り戻した。と同時に親からの自立を果たし、自立の道を歩み始めた、という2つの結末で終わった。
しかし、『紅の豚』はどうだろう。カーチスとの勝負は一応ポルコが勝ったが、フィオとのハッピーエンドがあるわけでもなく、ジーナとはどうなったのかも分からず、一番気になるフィオのキスによってポルコが人間に戻ったのかどうかさえもわからない。(ただ、カーチスの反応からすると戻ったように見える)。ただ慌しく決闘が終ってしまって去っていったような印象を残し、言ってみればひと夏の物語的な刹那的な物語のように感じられる。また、ポルコは昔について深く語らず、何故豚になったのかも語らない。ジーナと何があったのかも詳しくは語られていない。これまでの作品に過去・現在・未来があるとしても、この映画には現在しかないのだ。また、カーチスや空賊やフィオなどのその後は語られているがポルコのその後は語られていない。ポルコは今でもどこかで飛行艇を乗り回しているのかもしれない。つまり、ポルコの物語は続いており、そのままずっとひきずって生きていくのだ。ポルコがこのままずっと豚のままでいるかどうかは分からない。フィオとのことで何か変わったのかもしれない。これからポルコはどう生きていくのか。そういったことも含めて、この作品にはカタルシスがないのだ。それは「歩み続けるしかない。その時に相当のエネルギーがないとこれからはやっていけない。もう少し奥行き深くこちらが強くならないと、つまりそういうふうな考えで映画を作らないとこの先はもう作れん」(『黒澤明、宮崎駿、北野武』p201より) という監督の想いにも通じる。
「人間が生きていく上でのエネルギーを表現していく」とこの作品で改めて決意した宮崎監督。その決意は『紅の豚』以降の作品に表れている。1997年の『もののけ姫』。キャッチコピーの"生きろ"にもあるように、「いかに生きていくか」という監督の問い掛けを感じた作品である。2001年の『千と千尋』。現代の子供たちの生き方を考えさせられる作品だ。

・宮崎作品の共通点2…「女性」
次の共通点は「女性」である。全作品を見てみると、「少女、女性、老女」が登場していることがわかる。しかも、主人公は少女である場合が多い。なぜ少女なのか。それに関して監督は「少年を描くとしたら、自分の少年時代の陰影があまりにも強く投影されて、対象化しきれず、こんな純粋無垢な主人公を描くことが出来ない。少女でないと、自分の子供時代の苦悩を抜け出すことが出来ない。」(『黒澤明、宮崎駿、北野武』p139より)と述べている。
その中でも『ラピュタ』や『もののけ姫』は主人公をそれぞれ少年(パズー,アシタカ)としながらも、少女(シータ,サン)も同等の立場に置かれている。なぜなら、彼らが彼女らと出会ったことでその物語は始まるからだ。例えば、『ラピュタ』では、シータが空から降りてきたときパズーはこう言った。「君が空から降りてきたときドキドキしたんだ。きっと素敵なことが始まったんだって」。このように、シータがいなければ『ラピュタ』のドキドキするような冒険活劇は始まらなかったのである。『もののけ姫』においても、物語はアシタカが呪いの真実を探す旅というところから始まったが、サンと出会ったことで森に近い存在になり、この作品の主題ともいってよい「人と自然の対立」という方向性が濃厚になった。もしサンと出会わなければこの主題は薄くなっただろうし、アシタカはエボシに加担して森を切り開く立場にいたかもしれない。この作品は、アシタカがサンと出会ったからこそ人間と自然の対立という構図を描くことが出来たのではないか。もし出会わなければアシタカの呪いを解く鍵を見つける途方のない旅物語になったであろう。
つまりこの2作品とも少女なしには話は始まらないのだ。こういった点から少女も対等の立場(ヒロイン)に置かれていることが分かる。また、主人公以外でも女性の登場は多い。
ここで、先ほど述べた「少女、女性、老女」について、もう少し詳しく話してみようと思う。
作品全体に出てくる女性キャラクターを見ていると、あることに気付いた。それはこの「少女、女性、老女」という関係において「無垢な少女を意志の強い女性が支え、賢い老女が導く」という一定の形が見えたのである。宮崎作品において、少女はみなひたむきだ。ひたむきに取り組み課題を乗り越えようとしている。その純真無垢な姿は多くの観客の感動を呼ぶ。そして、年上の女性たち。『魔女の宅急便』のおソノさんや、ウルスラ、『千と千尋』のリンは、主人公の少女の悩みを聞いたり、ところどころで引っ張っていく、まるで姉のような存在として描かれている。一方、『ナウシカ』のクシャナや『もののけ姫』のエボシは敵対関係に置かれ、主人公と対立する重要な立場として描かれている。この年上の女性は『ラピュタ』や『トトロ』では登場していない。そこから見ると、それほど重要なポジションではないように思える。しかし、どうしても必要なのは老女の存在だ。監督が「親って言うのは敵なんです。どっかで。そうじゃなくておじいさんおばあさんは味方なんです。」(『出発点』p375より)と述べるように、老女は常に主人公に優しく、困った時には助けてくれ、主人公を導く存在である。『ナウシカ』の大ババ様は古くから伝わる「青き衣を纏いて金色の野に降り立つべし」という伝説をナウシカに語り、物語のポイントとなる部分を担った。『ラピュタ』のドーラは最初こそ敵対関係にあったものの、主人公の強い味方となり、支えてくれた。『トトロ』のおばあちゃんは主人公の姉妹をいつも見守り、世話を焼いてくれる。それぞれの作品の老女がその物語の鍵となる人物で、賢く優しく魅力のある女性として描かれている。
この女性像は言わば宮崎監督が考える「美しく無垢な少女時代を経て、したたかな女傑となり、母として子を育て、そして老いていく。」(『宮崎駿の着地点をさぐる』p61より)という女性の一生ではないだろうか。以下に作品ごとの例を挙げる。
   (作品名)         (少女―女性―老女)
『ルパン三世カリオストロの城』 クラリスー不二子
『風の谷のナウシカ』      ナウシカークシャナー大ババ様
『天空の城ラピュタ』      シータ―ドーラ
『となりのトトロ』       サツキ、メイーおばあさん
『魔女の宅急便』        キキーおソノさん、ウルスラー老婦人
『紅の豚』           フィオーマダム・ジーナーばあちゃんたち
『もののけ姫』         サンーエボシーモロ  
『千と千尋の神隠し』      千尋(千)―りんー湯婆婆・銭婆

なぜ、監督の作品にはこれだけ「女」が登場するのか。
「今は大義名分の時代ではない。力で切り開いていくとか、それほどシンプルな世の中ではなく、やはり男の方が生きにくい時代ってことに間違いはない。自分の周りを見ても、元気がいいのは皆女。男共は皆オロオロしながら自分の行く末を探しているって感じ。」(『黒澤明、宮崎駿、北野武』p141より)と監督が言うように、今元気がいいのは「女」である。結婚して子供が生まれても仕事を続ける女性が増え、女性の企業家も増えてきたのは、その証拠であろう。
宮崎作品の女性たちを見てみると、『紅の豚』では、飛行機を女性たち(中には老女もいる)だけで作り、『もののけ姫』では女性たちが夜通しタタラを踏み、生活の糧となる鉄を作っている。また、組織のリーダーが女性であることも多い。『ナウシカ』のナウシカは風の谷の皇女。民からの愛と信頼を一身に受け、谷を守っている。クシャナもトルメキアの皇女で、部下から慕われ抜群の統率力を発揮している。『ラピュタ』のドーラは空賊のリーダー。息子たち男たちを従えて男顔負けの行動力を発揮する。『もののけ姫』のエボシはタタラ場の首領。タタラ場の住民から絶大なる信頼を受け、神もタタリも恐れず石火矢を撃つ。『千と千尋』の湯婆婆は温泉地である油屋の経営者。大きな油屋を一人で切り盛りする。彼女たちはどの男よりも大胆で、「日本のこれまでの女性像とは違って、優れた統率力を備えた面で魅力的な人物。」「いわゆる『少女』を超越した、賢さや戦う力、そして挑む意思を持っている。」(『NEWSWEEK2002.4.3』より)と称えられるような女性たちだ。この女性たちから分かるのは、社会の根底を大勢の女性が働いて支えているという構図である。これは、「女は自然、男は文化」という従来の構造とは異なり、「女も文化」という新しい構造を生み出しているのではないか。
一方で、その周りの男たちにはどこか情けなさが漂っている。「男を主人公にすることを考えると、ものすごく屈折する。とりあえず一つの課題を超えるというところまでしかいけない。それ以上はいけない。しかし、女は課題を超えてその先もいろんなことが起こるだろうけど、この子なら何とかやっていけるんじゃないか、そう思わせてくれる」(『出発点』より)と監督が述べるように、『ナウシカ』では、巨大産業文明を作り上げたのは男性であり、その文明が滅びた後もおそらく男性が支配してきたのだろう。しかし、すでに1000年が過ぎたのに男性たちは為す術を知らない。腐海はますます広がり、人はマスクなしでは地上の世界に生息することすら出来ない状況になってしまった。この危機的状況を救うことが出来るのは男性ではなく女性である。こういう認識が監督にあったのかもしれない。
このように、宮崎作品の女性たちはヒロインだけでなく誰もが魅力的で賢く優しい女性たちだ。きっと監督は従来の女性像「従順」「やさしい」というイメージを打破して、新しい女性像を作りたかったのではないだろうか。それはフェミニズムというより女性に対するエールのように感じられる。

ヒロイン像…「性」を超えたナウシカ
クラリス、ナウシカ、シータ、キキ、サツキ・メイ、ジーナ・フィオ、サン、千尋。これらは宮崎作品のヒロインである。その中でも『魔女の宅急便』のキキは少女から共感を得やすいキャラクターだろう。思春期の女の子にありがちな、おしゃれが気になったり、同世代の女の子を意識したり、男の子を気になったりという行動。また、親から離れたいと思うこと(ここでは魔女のしきたりとしての修行となっているが、親元を離れ自活することは思春期の反抗期に似ている)、悩んだりうまくいかなくて落ち込むことなど、いろんな悩みを抱えながらも落ち込んだり元気になったりを繰り返して暮らしている観客である少女達に近い存在だ。実際、このキキは地方から上京してきて生活しているごく普通の女性たち、彼女たちが経験するような孤独や悩みを描いていると監督自身も述べており、ここでの魔法も誰もがもっている何らかの才能として位置付けされている。
逆に、観客である少女たちから遠い存在のキャラクターは『ナウシカ』のナウシカだろう。強く賢く優しいナウシカに尊敬に近い憧れを抱き「ナウシカのような強く優しい女性になりたい」と思うが、共感を抱けるようなキャラクターではない。それはなぜなのか。                            ナウシカに悩みがあってもそれは私たちが抱えるような俗世的な悩みではなく、森や人類、しいてはこの世の未来という壮大な悩みを抱えている。つまり、ナウシカは14,5歳にして人類の運命を背負ってしまっているのだ。また、俗世の「性」や「女性」であることに惑わされたり悩んだりするとは思えないし、そのような描写は見当たらない。例えば、アスベルという少年が登場するが、ナウシカとアスベルの間に恋愛関係は存在しない。同じように少年と少女が登場する作品に『ラピュタ』や『もののけ姫』がある。この2つの作品にも恋愛関係は存在しないが、パズーやアシタカはそれぞれシータやサンを必要とし、2人の恋を想像させる。しかし、アスベルとナウシカにはそれがない。少なくともナウシカにはない。ナウシカはもう蟲に心を奪われており、これからの未来を背負っているだけで精一杯なのだ。そんな彼女に恋をする余裕はない。そういうところからもナウシカが少女らしくないこと読み取れる。あれだけ女性らしい体つきをしているが、鳥のように軽々と飛翔し、食欲があまりないナウシカからは性が感じられない。腐海遊びをし、メーヴェを操つり、銃や剣を使い、屋根に登って風車を回す姿はどこか男性的だ。父を殺された時のナウシカの顔や、敵に飛び掛っていく様はまるで男性の様に荒荒しい。またアスベルに攻撃を受けて、飛行艇から脱出する時の行動力には思わず惚れ惚れしてしまう。そういった男性的な部分と、大きな胸に短いスカート、優しい心、人や森を慈しむ心といった女性的な部分という2面性をナウシカは持っているのだ。また、ナウシカ、ユパ、ジル、大ババ様4人で話す場面で、『ナウシカ』の絵コンテには「ナウシカの服を女性っぽく」と指示してある。ということはナウシカが普段着ているあの服は男性的ということになるだろう。動きやすく機能的なあの服は確かに男性的かもしれないが、メーヴェに乗るたびに短いスカートが捲れるというのは物語の中でも数少ない女性を表している部分だろう。
更に、ナウシカは大きな胸を持ちながらも「女」を思わせることはなく、いつのまにか「母」となっている。マンガ版の『ナウシカ』において、ナウシカは少女から月経、男女の交わりもなく、女性である時期を飛ばし巨神兵「オーマ」を自分の子供として受け入れ、母となっているのだ。映画版でもナウシカは王蟲に対し「いい子だから」と言う場面が多い。これはまるで母が子供をなだめる時のようだ。またナウシカの胸が大きいことに関して「ナウシカの胸が大きいのは、あそこにいる城オジやおばあさんなど、周りの人が死んでいくときに、抱きとめてあげるための胸。だから大きくなきゃいけない。安心して死ねる。そういう胸じゃなきゃいけない。」(『出発点』p476より)と監督が述べている。これも「母の胸で安心して眠る子供」を思い起こさせる。

ナウシカはこうして一連の女性の「性」の流れを超え女性を超えて、より私達からは遠い存在なってしまったのだ。その存在は「神」に近いかもしれない。木々や蟲や動物と話をし、心を通わせ、人間と同じように蟲たちを慈しむ。ナウシカにとって人も蟲も同じ価値なのだ。だから自分を犠牲にしても蟲たちを助けようとするのだ。「神」という点は最後の結末を見ても感じられる。王蟲の怒りを鎮めるために自ら王蟲の群れの前に立ち、自らを持って怒りを鎮め、そして王蟲の愛によって再び蘇る。こうしてナウシカは「青き衣をまといて金色の地に降り立つ」「伝説の人」になった。これはキリストの復活を思い出させ、ナウシカは「少女」ではなく「神」であることを裏付けている。
ナウシカにあるのは年相応の少女像ではなく、性を超えた「神」としての愛、「ひたすら愛するものを守る激しさ」である。故に、ナウシカは自分を犠牲にしてでも人や蟲を守る。最初は飛行船がアスベルに襲われた時。2回目攻撃されて混乱している城オジたちを落ち着かせるために、瘴気の中をマスクをはずして説得した時。3回目は小さな王蟲の子を助けるために壺型の飛行機を止めようと飛び乗ったとき。4回目はその王蟲の子が酸の海に入ろうとするのを自分の傷ついた足を犠牲にして止めたとき。何故ナウシカはこんなに自分を犠牲できるのだろう。自分だったらこんなことはできない。そのあたりも、ナウシカへの憧れはあるが共感はできない点だろう。

・宮崎作品の共通点3…「空を飛ぶ・風」
3つ目の共通点。それは「飛ぶこと」である。『ナウシカ』でナウシカはメーヴェという小型の飛行機を自由に操り、風を読んで大空を舞い、砂埃を立てながら地面スレスレに飛ぶ。『ラピュタ』でパズーとシータは飛行石の力で飛び、空賊のフラップラーは地面スレスレをスピード感たっぷりに走っていく。『トトロ』ではサツキとメイは「私たち、風になってる!」とサツキが叫ぶようにトトロにつかまってまるで風になって夜の空を散歩する。『魔女の宅急便』でキキは箒に乗って空を飛ぶ。『紅の豚』でポルコは赤い飛行艇に乗りアドリア海の空を飛ぶ。『千と千尋』でも千が白竜に乗って空を飛ぶ。
「飛行は視点(カメラ)が大地から解放されることにあるはず。プラモデル的視点は決定的に臨場感不足という弱点になる。アニメーションは絵空事だからこそ、作り手は全力をあげて嘘のつき方を工夫すべきだ。」(『出発点』p74より)と監督は述べている。プラモデル的視点とは、カメラがどこか部屋の中に据え付けられた、そのまま動かないような視点である。そのため横への移動が中心になりがちだったアニメの世界に、宮崎監督は縦に移動する構図を取り入れた。それによりナウシカが空を舞うと、眼下に広がる世界を観客も同じように見ることが出来た。また、「いつも高いとこへ行ってしまう。上から段々下へ行って、その世界の一番下に行く。そこから上へ上へ行って登りつめて終わるという図式を遂考えちゃう。」(『出発点』p349より)というように、その縦の空間があることによって宮崎作品は常にダイナミックな映像を作り出してきた。『ラピュタ』はその典型的な形であろう。飛行艇に乗っていたシータが落下して地上へ落ち、また落ちて地下の坑道というその世界の一番下へと落ちる。そして今度は飛行艇に乗ってラピュタという天空の城へと辿り着くのである。また『魔女の宅急便』ではキキの乗っているデッキブラシがいきなり上昇して、次の瞬間には下降したりと暴走を繰り返し、『千と千尋』では、白竜が空から海へ落ちたと思ったらまた上に上がってきて、その世界の一番上である湯婆婆の部屋へと入っていく、というのもその図式にあてはまる。
なぜ宮崎作品はこんなに「飛ぶ」のか。その飛翔感は「私もあんなふうに飛びたい」と見ているものを魅了する。人間が飛ぶということは、重力の法則を超越することである。人間がこの現実世界を生きていくためには様々な規則や慣習に従わなければならない。そんな窮屈な現実を生きていると、誰もが一度はこういう現実の世界から自由に羽ばたきたいと願うのではないだろうか。「乗り物が地を走り水をくぐり、大空をかけるのは、人を束縛から解放するためでありたい。」(『出発点』p76より)と監督が述べているように、主人公たちの飛翔は地上という呪縛からの解放を意味し、同時に私たちを日常の呪縛から解放し、すがすがしい気持ちにさせてくれるのだ。アニメーションの中とは言えども宮崎作品の見事な表現力、映像の迫力で観客は自分が風になって飛んでいるような気持ちになれる。子供の頃、誰もが空を飛ぶことを夢に抱いたはずだ。宮崎作品はこういった夢を実現してくれているのかもしれない。

また、飛ぶことと同じように注目したいのは、風の存在である。
「飛ぶ」ことと同じくらい、宮崎作品には風が存在する。しかも、この風がただの風ではない。例えば『となりのトトロ』で夜、サツキが薪を取りに外へ出ると風が吹き、周りの木々が大きく揺れ、ざわめきだした。そうすると今度は下から強い風が吹きつけ、サツキは持っていた薪を思わず落としてしまった。このシーンは不気味で、これから何かが起こることを暗示し、よりトトロ的な雰囲気を醸し出している。『千と千尋』においても千尋たちがトンネルをくぐり終えた時、風が吹き上げ千尋の不安感を煽っているように見えた。また『魔女の宅急便』では、キキが旅立ちを決心するシーン。騒がしく風が吹いて、さぁこれから旅立つぞ、というキキの気持ちを奮い立たせるような風が吹いていた。もしここでそよそよと爽やかな風が吹いていたらキキは旅立ちを決めるどころか気持ちよくなって寝てしまったかもしれない。『もののけ姫』では、アシタカとサンが初めて出会った時にも風が吹いた。2人の間を風が流れ、この2人の出会いによってこれから何か起こる、2人がこれから密接な関わりを持ってくることを暗示するような風だった。また、シシ神が倒れた時には嵐のような大きな風が吹き荒れ、全てを巻き上げなにもない土地にしてしまった。「また一からやり直そう」というエボシの言葉通り、物語をやり直すために何もかも吹き飛ばす風を吹かせたのだろう。このように、宮崎監督はその場面場面にふさわしい風を作品に吹かせている。
また、風が人物の気持ちを表現することもある。『カリオストロ』ではルパンが撃たれ、「我妻になるならその者を助けてやる」という伯爵の言葉を聞いた時、風が吹きクラリスの髪が揺れた。それまでは全く風が吹いていなかった場面に、風が吹いたのだ。それはまるでクラリスの心の揺れを表しているように見えた。また、『もののけ姫』ではアシタカがタタラ場でタタリ神が呪いを体に取り込んだ理由を聞いた時、現実にはそうでないが、アシタカには風が吹き、髪が舞い上がった。このように、宮崎作品では心が揺れ動くと風が吹くのである。
これだけ風が使われている理由として、監督は「アニメーションの表現の時に、表現の手管が非常に少ない。例えば風はそういう表現が少ない中では適当にやれる範囲にある。」(『黒澤明、宮崎駿、北野武』p124より)と述べている。物語の節目節目に吹く風は物語に深みを増すための手段なのだ。

飛べない作品…『もののけ姫』
しかし、ほとんどの作品が空を飛ぶ中で、唯一飛ばない作品がある。それは『もののけ姫』だ。主人公は空を飛ばずにひたすら地面を這っている。観客を解放させるような飛翔感はそこにはない。『もののけ姫』の主軸は人間と森との対立だ。人間側の代表はエボシ御前。彼女は豊かで、人がもっと住みやすい村を築くという理想、主張のもと、森を切り拓いている。1つの正義だ。一方、森の代表はサン。彼女はシシ神の森を守るために山犬や猩々たちと協力して人間と戦っている。木を切られたらまた植えればいいと、健気に森を守っている。これも彼女の正義だ。どちらが正しいとは言えない。強いて言えばどちらも正しいのだ。これは今の社会にも通じる。自然は守らなければいけない。これは当然のことだが、人が生きていくためには木を切らねばならない。この2つの正義の間で漂っているのが私達人間なのだ。『もののけ姫』においてその姿はアシタカに置き換えられている。エボシ御前とサン、2人の女性の正義の間にいるのがアシタカだ。「人と森と双方が生きる道はないのか」と叫びながらどうすることもできない。「あいつはどっちの味方なんだ」という台詞があるように、アシタカの立場は非常にはっきりしない。サンと共に森のために戦うのかと思えば、シシ神を救うこともできず腕を食いちぎられたエボシを助ける。そういうアシタカの姿は私達の抱える矛盾を表しているのだ。
その現実味ゆえに、『もののけ姫』は空を飛ばない。上に述べたように、「空を飛ぶ」という行為は宮崎作品においては、「呪縛からの解放」を意味する。つまり、観客を現実の世界から解き放ち、ファンタジーの世界へ誘うために飛ぶのだ。『もののけ姫』おいても、飛ばそうと思えばいくらでも飛べたかもしれない。しかし、そこで敢えて飛ばなかったのは現実の重さを表すためである。飛ばしてファンタジーにするのではなく、現実の問題として捉えるために、監督は飛ばさなかったのだ。現実世界の呪縛を解き放つことなく、その呪縛の中でいかに生きていくか、という思いがそこにあったのだろう。

また、『もののけ姫』には「空を飛ばない」以外にも疑問が多い。ここで、いくつかの疑問を取り上げてみた。そこにはどんな思いがあるのか。作品の持つ現実の重さを踏まえて考えてみたい。

疑問1.「なぜ、傷を負ったアシタカがシシ神の池にいた時、シシ神は痣まで治してはくれなかったが、ラストのディタラボッチ(シシ神の夜の姿)が首を取り戻し死んだ時にはシシ神は痣を治してくれたのか。」
「いずれ骨まで染み渡り、苦しめ、遂には死に至らしめる」という呪いの痣。そんな重い定めを背負ったアシタカ。生と死を司り、命を与え奪いもするシシ神なら治してくれるかと思ったら「呪いが我が身を食い尽くすまで苦しみ生きろ」と痣を消してはくれなかった。ここでアシタカは「傷は癒しても痣は消してくれなかった」と、もう死は免れない定めだと悟ったのだろう。そして、クライマックスでシシ神に首を返すときに、シシ神の首から溢れている体液に触れたアシタカとサンの顔や体には同じような痣が出来た。サンは驚くが、アシタカは動じない。なぜならもう既に死を覚悟していたからだ。そしてまばゆい光と共に強い風が吹き、緑は蘇った。前にも述べたが、風が全てを吹き飛ばし、また一から始めようということを意味するのではないか。つまり、あの死をもたらす呪いの痣によってアシタカとサンは一度死んだのではないか。そして森が蘇ったように2人も蘇ったのだ。そうしてシシ神は「生きろ」と言ってくれたのだ。しかし、ただ前と同じように生きるのではない。その記憶としてアシタカの手には痣の痕が残っている。それは、この痕を戒めとして常に抱き、これからの苦しみに立ち向かわせ、どう生きていくのかを、アシタカに考えさせるためではないか。宮崎監督は次のように述べている。「人間はいつも、いつも『自分たちがこれからどうやるのか』ということを考えて生きていくしかない。それしか道はないんですね。それが『生きろ』ということですから。」(注3)。

疑問2.「なぜ、シシ神やモロ、乙事主、猪など森に生きるものは死んで、人間(エボシ)は生き残ったのか」
 この結果は結局、自然は人間に負けてしまうということを表すのではないのだろうか。
もし、この作品をファンタジーにするならば、自然が生き残り人間が死ぬ、という結末になるだろう。しかし、この作品は現実を描いているのだ。現実では人間が森を切り拓く立場にいる。つまり自然は死に、人間は生き残るのだ。この現実を観客に見せ付けるために監督はこのような結末を描いたのだろう。宮崎監督も「人間は他の生物を殺して食べなければ生きていけない。これが人間の本質だ。そんな恐ろしいものはエンタテイメントにはならない。でもどうしてもこの作品をやるならこの機会にやってしまおうと、これが出発点である。」(注4)と述べている。しかし、エボシは生き残っても右腕を失うという傷を負った。これも、アシタカの痣の痕と同じ意味を持つのではないか。戒めとして体に刻み、生き続ける限り常に抱えるのだ。「エボシという女なんですが(中略)生き残るんです。生き残る方が大変だと思っているもんですから」(注5)。傷を負ったエボシがこれからどう生きていくのか。それを見たいから監督はエボシを殺さなかったのだ。しかし、エボシが生きるという事はタタラ場も生きるという事になる。「監督は、タタラ場による自然破壊のすさまじさは十二分に認識していたはずです。にもかかわらず、最後にタタラ場の存在を肯定してしまうのはどうしたことでしょう。」(『もののけ姫の秘密』p203より)のような意見もある。この意見に対し、私は次のように思う。監督はタタラ場を肯定したかもしれない。それは人間が生きていくのに必要だからである。でも、自然は守らなければならないという両者の葛藤を抱えながらどう生きていくかというのを伝えたかったのではないか。

疑問3.「なぜアシタカは村へ帰らず、サンと共に森で暮らさず、タタラ場に残ったのか?」
「サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。共に生きよう。」と、ラストにおいてアシタカはサンと別れて暮らすことを選んだ。物語的にはアシタカはサンと森へ帰るべきだったと思うし、サンもそれを望んでいたかもしれない。そういう結末の方がアニメとしては理想的だし、今までとは違うすっきりしない結末に不満を抱いた観客は多いだろう。アシタカは常に「人と森が共に生きる道」を探していた。もし、アシタカが森へ帰ってしまってはその道を探さずに、そこで終わってしまっただろう。しかし、別れて暮らすという結末。この作品はシシ神によってアシタカの痣がなくなり、病人の病は治り、森には緑が戻った、というところで結末を迎えたが、そこで終わるのではない。またそこから始まり、タタラ場で暮らすアシタカがどうなったのか、同じようにエボシ御前率いるタタラ場がいい村になったのか、サンの住む森がまた人間の手によって切り拓かれていないだろうか、とこれからも続いていくのだ。そして、「共に生きる道」を探すのだろう。『紅の豚』のように「これからどう生きていくのか」ということだ。それが「共に生きよう」というセリフにも表れている。
そういう形の結末は、「日常生活の中で、人間が自然界を守るために出来る範囲なんていうのは狭いし、生物界で人間が生きるためにやっている行為に対する不信感も、アシタカはトゲとして持っている。と同時に、人間が飢えで死んでいくことを見過ごすことは出来ない。そのただ中で葛藤を持ちながら、苦しみながら生きていくしかアシタカはできない。これからの人類の生きていく道はそれしかないですよ」(『もののけ姫』解説パンフレットより)。「もう告発はすんだのです。後は日常生活の中で、一人一人が何をするのかを考える時です。それぞれができる範囲のことをやればいい。」(注6)という、監督自身も含めた私達人間への「これからどう生きるか」という監督の問い掛けのように感じられる。


おわりに
以上、宮崎作品の共通点を中心にそれぞれの作品の内容を含めて、考察した。全てに共通していることは「今、この時代をどう生きていくのか」という思いである。『紅の豚』でも述べたように、この作品以降監督は「どう生きていくか」という思いを根底にして、作品を作ってきた。しかし、それは『紅の豚』以降だけではない。それ以前でもその思いは無意識のうちに作品の中に流れていたのだ。作品ごとにストーリーは異なるが、伝えたい内容は同じだ。どんな状況下にあっても生き抜こうとする力、人間の持つ最大限の欲求である生きることの尊さや素晴らしさを表現しているのだ。
また、そこには宮崎監督の変化が表れている。『もののけ姫』とよく対比される作品として『ナウシカ』が挙げられる。1984年に上映された『ナウシカ』の結末は、ナウシカが王蟲の愛により生き返り、これから困難なことが起こるかもしれないけど、ナウシカという救世主によりこの世界は救われるだろう、という一応のハッピーエンドだった。しかし、『もののけ姫』には決してハッピーエンドはない。救世主は現れず、苦しい現実が待っている。それでも、何とか生きていこうよ、というファンタジーだけじゃ終わらない、終われなくなった監督の変化の表れだろう。
宮崎監督の次回作は2004年上映予定の『ハウルの動く城』だ。どんな内容か詳しく知らないが、この作品で宮崎監督は今度はどんな映像を見せてくれるのか、どんな思いを観客に伝えるのか、今から楽しみである。そしてこれからもスタジオジブリとしても宮崎駿としても良い作品を作って私達の前に見せて欲しい。

最後に、この研究をするにあたり、私は何度も宮崎作品を見直した。そして感じたのは「やはりいい作品だ」ということである。元々ジブリファンということから始まった研究なので、やや主観的なところがあったかもしれない。もっと客観的な意見を加えられたらと思ったが、好きなことを研究対象にしてしまった以上、今更客観的に見ることは難しく、どうも肯定的な意見しか書けなかった。そこが少し悔やまれるところである。


1.…ここでは劇場作品を対象としているので、テレビ放映の『海がきこえる』は外してあります。
2.…約10名程の大学の友人に聞いてみただけできちんとしたアンケートをとったわけではないので、意見の偏りがあるかもしれないが、そこの所はご了承頂きたい。
3,4,5… http://www.yk.rim.or.jp/~rst/rabo/miyazaki/miyazaki_inter.html より
6… http://www.yk.rim.or.jp/~rst/rabo/miyazaki/gen_yomitoku.html より

参考文献
http://www.yk.rim.or.jp/~rst/rabo/miyazaki/miyazaki_inter.html
http://www.yk.rim.or.jp/~rst/rabo/miyazaki/gen_yomitoku.html
http://www.ntv.co.jp/ghibli/ghibli_y/history/history1.html http://www.mars.dti.ne.jp/~yato/ghibli/st_ghi.htm
http://www.fides.dti.ne.jp/~tyde/essays_mononoke1.html「『もののけ姫』論第一部」 
久慈 力 「『もののけ姫』の秘密」  批評社 1998年
柴口 育子「アニメーションの色職人」  徳間書店 1997年
養老孟司 「フィルムメーカーズ6宮崎駿」 キネマ旬報社 2002年
宮崎駿  「出発点」          徳間書店 1996年
宮崎駿  「『風の谷のナウシカ』絵コンテ@」 徳間書店 1996年
清水 正 「宮崎駿を読む 母性とカオスのファンタジー」  鳥影社 2001年
「ポップ・カルチャー・クリティーク1,宮崎駿の着地点をさぐる」 青弓社 1997年
「NEWSWEEK(P62)」2002.4.3
「黒澤明、宮崎駿、北野武 日本の三人の演出家」 株式会社ロッキング・オン 1993年
「Japanese Animation 日本のアニメ〜終わりなき黄金時代」 
ネコ・パブリッシング 2000年
「日本のアニメ All about JAPAN ANIME」  宝島社 2002年
「読売新聞(朝刊)」 2002.12.16
『千と千尋の神隠し』劇場用パンフレット 東宝株式会社 2001年



Copyright(C)2002 Kumata Seminar All Rights Reserved