2002年度 後期セメスターペーパー 『アメリカの中のアイルランド』 井上 恵里 |
1.「アメリカの中のアイルランド」 現在、アメリカ合衆国の人口はおよそ2億6000万人。「人種のるつぼ」「サラダ・ボール」とかつて呼ばれたこの国には、様々な人種・民族が生きている。そして、2億6000万分の4000万。およそ6人に一人。それが、現在のアイルランド系の人々の、アメリカ合衆国での人口統計上の「位置」である。 現在、全世界にはアイルランド系の人々が、およそ7000万人いると言われている。とすれば、世界に移民したアイルランド人の半数以上の子孫が、アメリカで暮らしているということになる。この事実は、リバーダンスを起点としアイルランド文化を研究し始めたこと、そして私自身が数ヶ月アメリカで暮らしていたこと、この2つの事象を接着剤のごとくぴたりとくっつけ、今回の研究テーマをもたらした。ジョン・F・ケネディ大統領、映画『タイタニック』などアメリカの中には、たくさんの「アイルランド」が息づいている。大概の人の頭には、アイルランドと言えば、お隣の国イギリスという式が成り立つと思われる。けれど実際、そのイギリスと同じくらいアイルランドにとって、アメリカという土地は重要な意味を持つ。『アメリカの中のアイルランド』これが今回の研究テーマだ。 2.アイルランドからアメリカへ そして、最大の移住が1845年から1850年にかけて行われる。その背景となったのは、ジャガイモ飢饉である。1840年代の初めまでは、アイルランドの農村部に住む人達の約4分の3が、主として、もしくは完全に、年間のジャガイモの収穫に頼って生きていた。ジャガイモは、それ以外の食料が手に入らない数百万のアイルランド人を生かし続けるに十分な栄養をもち、かつ収穫の得られた唯一の農作物だったのだ。そのジャガイモの収穫が、新種の菌によって1845年から5年連続して失われたのである。人々は、食べ物と仕事を狂ったように探し求めながら、粗末な小屋の中で、あるいは道ばたで息絶えていった。この飢饉を通して、100万人を超えるアイルランド人が死亡したとされる。 しかし、渡航環境は劣悪だった。大部分が、家畜輸送船の甲板に乗ってまずアイリッシュ海を渡り、イギリスの港町リヴァプールで、大きな輸送船に乗り換えた。が、このリヴァプールでは、騙して渡航費用を奪ったり、女性移民を売春宿へとたぶらかしたり、という悪事が行われることも多々あった。移民の船は、小型で老朽化し、また乗組員や航海士はろくな訓練も受けていなかった。適切な量の飲料水、食料、医療品、あるいは調理設備や衛生設備を欠いたままの航海だった。 (注1)当時はイギリス王国。 アメリカ人はこう考えていた。アイリッシュの貧しさは、怠惰と不道徳、無知と迷信深さの証で、これらすべてが、アイルランドの民族性とカトリックの不可分の特質であると。大部分のアメリカ人が、自らが受け継いだイギリスの家系とプロテスタンティズムに誇りを抱き、カトリック教会そのものが、アメリカの民主的制度に対する不倶戴天の敵であると確信していた。1850年代には、移民排撃主義は"ノウ・ナッシング"、またの名を"ネイティブ・アメリカン"党というかたちで、全国的な政治運動となっていく。南北戦争時、アイリッシュは北部同盟に積極的に関与し、その忠誠心がアイルランド人への恐怖を一時的に和らげはした。それでも、アイルランド人移民とその宗教に対する嫌悪感は、プロテスタント・アメリカンの間に根強く残り続けたのである。何十年間にもわたって、「アイリッシュでありカトリックである」ことはアメリカ社会においては汚名であり、アイリッシュ・アメリカンの中産階級と労働者階級の前に、偏見が障害として立ちはだかった。1890年代には、移民排撃主義者たちが「アメリカ保護協会」を結成し、一時的に勢力を振るった。アイリッシュ・アメリカンのカトリックには投票せず、ともに働かず、友人にもしないと誓う団体であった。第一次世界大戦中は、アイルランド人が古くから抱くイギリスへの嫌悪が、移民たちとその子どもらを、ドイツの味方につけるのではないかと疑われた。1920年代には、復活したクー・クラックス・クラン(反黒人秘密結社)が、ユダヤ人やアフリカ系アメリカンだけでなく、アイリッシュ・カトリックにも襲いかかった(前掲書p.92〜97より)。 4.「約束の地」アメリカ その大きな転機は、1856年にやってくる。この年、民主党よりジェームズ・ブキャナン(James Buchanan)大統領が誕生する。民主党は、アイリッシュ・カトリック移民にとっては救世主であった。アイルランド移民と民主党を語る上で欠かせないのが、"タマニー・ホール(Tammany Hall)"と呼ばれる政治団体である。このタマニー・ホールは、元は民主党のニューヨーク支部が貧しい移民を支援する拠点としていたが、やがて票集めのため組織犯罪と手を結ぶなど腐敗していってしまった。彼らは、自治体を思いのままに運営するために、慈善事業、雇用機会を見返りに、票を買い集めていった。これは、雇用のないアイリッシュ・アメリカンにとっては願ってもないことであった。タマニー・ホールのような政治団体が用意したのは、警官、消防士、ガス関係の労働者など直接自治体のために働く仕事や、直接というわけではないが、自治体と取引のある建築会社などでの雇用が含まれていた。同時多発テロの時に活躍した消防士の多くがアイルランド系だったのは、この名残なのである。 そして、1856年のジェームズ・ブキャナンの勝利は、ノウ・ナッシング主義の波を阻止したのだ。これ以後、数十年間でアイリッシュ・アメリカンは政治的高位に登っていく。単にタマニー・ホールに雇用機会を与えてもらうだけでなく、自らが政界へと乗り込んでいったのだ。 アイリッシュ・アメリカンが政治面で活躍できたのは、第一に単純に数の問題である。1855年までにはニューヨーク市の人口80万人のうち、アイルランド移民の数はおよそ17万6千人で、選挙権をもつ市民の五分の一以上がアイルランド生まれであったのだ。この頃アメリカの政治が腐敗していたのも、アイリッシュが高位に登っていく好機を与えた。民主党、共和党、アイリッシュ、ネイティブに関わらず、違法の票集めや、敵候補優位の投票所の襲撃など選挙違反が行われ、そうして選挙で勝利を重ねていったのだ。そして、各都市の発展に伴い、ヤンキー達が企業専念のため政界を去ったことも、アイリッシュに味方した(前掲書p.109〜113より) 1900年代初めには、アイリッシュ・アメリカンは経済面でも成功収めるようになる。アイリッシュ・アメリカン男性の35%がホワイトカラーの仕事に就くようになっていた。タマニー・ホールのような政治団体への忠誠が、民間レベルでのヤンキーの偏見を回避し、有利な契約や安定した職を確保させたのである。 ネイティブ・アメリカン(注2)から差別され、虐げられていたが、アイリッシュは何も無抵抗だったわけではない。たとえば労働組合。先にも述べたように彼らは無きに等しいほどの賃金しかもらっていなかった。しかし南北戦争の頃になると、アイリッシュの大工、製鉄行員、煉瓦職人などの熟練工が、職能別組合を先頭に立って組織し、より高い賃金を求めるストライキを指揮するようになったのだ。1880年代には、数千人の熟練・非熟練双方のアイリッシュ・アメリカン労働者が、アイルランド人移民の子弟テレンス・パウダリーに率いられた合衆国最初の全国的労働者組織、労働騎士団に結集している。全国的な労働組合の中においても、アイリッシュの数は群を抜き、またその指導的立場に立っていたのだ。 ここに、カトリック教会のことも忘れてはならないであろう。ジャガイモ飢饉によってアイルランド移民が群れをなして到着したことは、アメリカのカトリック教会を急激に変化させた。アイルランド国内よりも、急速に、また劇的に拡大していったのである。数千の新しい教会が建設され、数万人におよぶ新しい司教と教育・慈善団体のメンバーがアイルランドから送り込まれたり、またはアメリカで育成されたりした。そして20世紀までには、カトリック教会は全国で最大の宗教団体となり、その教会は主にアイリッシュによって支配されていたのだった。 こうして、市政・州政における民主党の内部、労働組合の中、そしてカトリック教会内でのアイリッシュ・アメリカンの影響力は増大していった。そしていよいよ、アイリッシュ・アメリカンが指導的立場に立つ、という栄光の頂点にまで達することになったのだ。それが、ジョン・F・ケネディ大統領の誕生である。ケネディ大統領の誕生は、アイリッシュがアメリカに最終的に適応し、受容されたことの表れである。しかし、アイリッシュ・アメリカンへの偏見・差別が皆無になったわけではなかった。ブキャナン大統領が登場しアイリッシュ・アメリカンの状況が改善の一途を辿った一方で、偏見や差別も依然残されたままであったのだ。 また栄光を手にする一方で、アイリッシュ達が、いつの日にも保ち続けてきたアイルランド人であるというアイデンティティを、自分自身も保ち続け、また子どもや子孫に伝えていくのは困難に感じられるようになっていった。彼らはまさに、アメリカという国に染まりきってしまったのだ。 (注2)現在「ネイティブ・アメリカン」という語は、アメリカ先住民の代用語として使われているが、ここでは19世紀に使われた「アメリカ独立のために戦い、アメリカ建国に手を貸した、生まれながらのアメリカ人」という意味合いで使っている。 今や合衆国の各都市では、アイリッシュ・アメリカンの社交クラブ、歴史研究センター、アイルランド伝統音楽やダンス、さらにはゲール語を教える教室までもが現れ、繁盛している。一度は失いかけられたアイルランドへの誇りとあこがれが、また復活し、語り継がれているのだ。 6.混沌の果て 祖国を追放同然の感覚で旅立ったアイルランド人たちが目指したのは、何もアメリカ合衆国だけではなかった。カナダに行った人もいたし、オーストラリアやニュージーランドに辿り着いた人もいた。そういったアイルランド人と、アイリッシュ・アメリカンの違いは何であったのだろうか。はたまた、その違いは存在し得るのだろうか。 7.参考文献 8.引用文献 Copyright(C)2002 Kumata Seminar All Rights Reserved
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