2002年度 後期セメスターペーパー

『アメリカの中のアイルランド』

井上 恵里

 
1.「アメリカの中のアイルランド」
現在、アメリカ合衆国の人口はおよそ2億6000万人。「人種のるつぼ」「サラダ・ボール」とかつて呼ばれたこの国には、様々な人種・民族が生きている。そして、2億6000万分の4000万。およそ6人に一人。それが、現在のアイルランド系の人々の、アメリカ合衆国での人口統計上の「位置」である。
現在、全世界にはアイルランド系の人々が、およそ7000万人いると言われている。とすれば、世界に移民したアイルランド人の半数以上の子孫が、アメリカで暮らしているということになる。この事実は、リバーダンスを起点としアイルランド文化を研究し始めたこと、そして私自身が数ヶ月アメリカで暮らしていたこと、この2つの事象を接着剤のごとくぴたりとくっつけ、今回の研究テーマをもたらした。ジョン・F・ケネディ大統領、映画『タイタニック』などアメリカの中には、たくさんの「アイルランド」が息づいている。大概の人の頭には、アイルランドと言えば、お隣の国イギリスという式が成り立つと思われる。けれど実際、そのイギリスと同じくらいアイルランドにとって、アメリカという土地は重要な意味を持つ。『アメリカの中のアイルランド』これが今回の研究テーマだ。

2.アイルランドからアメリカへ
6世紀と7世紀。キリスト教布教のため、アイルランド人伝道師らがアメリカへ移民した。アイルランド人、つまりケルト民族は「文字にして記録を残す」ということをしなかったため、アメリカへの移民の歴史的記録は17世紀に至るまでない。その17世紀、5〜10万の人々が移民したが、その大部分は年期奉公人としての移民であった。そして残りは、アイルランド人反逆者や凶悪犯、つまり囚人であった。18世紀に入ると、その数は一気に50万人にまで膨れ上がる。彼らは、ペンシルヴェニアやキャロライナなどの辺境に土地を求めて移住した。この時の移民は、スコットランドにルーツを持つ「スコッチ・アイリッシュ」が大部分を占めていた。スコッチ・アイリッシュとは、1600年代、スコットランド南部のロウランド地方からアイルランド北部に移住した人々の子孫のことである。この人口移動は、ブリテン王室によって組織されたものだったが、1700年代になって土地の高騰や十分の一税に苦しめられ憤慨するようになり、そのことが、彼らスコッチ・アイリッシュのアメリカを目指すきっかけとなった。19世紀から20世紀にかけて、スコッチ・アイリッシュとその他のアイリッシュ・プロテスタントはアメリカに移民を続け、合衆国にとどまらずカナダへの移民も増大していった。そして1790年代と1800年代の初めに、より大きな移民の流れが加わることになる。カトリックである。もちろん、これ以前にもアイリッシュ・カトリックの移住はあるにはあったが、アイルランドのカトリックたちが集団的大移民を始めたのは、19世紀初頭であった。彼らは、カナダ・オーストラリア・ニュージーランド、アルゼンチンにまで渡っていったが、第一の目的地はアメリカであり続けた(カービー・ミラー『アイルランドからアメリカへ』p.13〜17より)。

そして、最大の移住が1845年から1850年にかけて行われる。その背景となったのは、ジャガイモ飢饉である。1840年代の初めまでは、アイルランドの農村部に住む人達の約4分の3が、主として、もしくは完全に、年間のジャガイモの収穫に頼って生きていた。ジャガイモは、それ以外の食料が手に入らない数百万のアイルランド人を生かし続けるに十分な栄養をもち、かつ収穫の得られた唯一の農作物だったのだ。そのジャガイモの収穫が、新種の菌によって1845年から5年連続して失われたのである。人々は、食べ物と仕事を狂ったように探し求めながら、粗末な小屋の中で、あるいは道ばたで息絶えていった。この飢饉を通して、100万人を超えるアイルランド人が死亡したとされる。
この状況を、イギリス(注1)はどう見ていたのだろう。ロンドン『タイムズ』紙はこう宣言した。この大飢饉は「天の偉大な恵みである」と。「アイルランド人の…不平不満という厄介な問題を解決する」またとない「貴重な機会なのだ」と。このような偏見に後押しされ、イギリス政府の救済策は不十分極まりないものとなった。アメリカからアイルランドへトウモロコシが輸出されたが、イギリスの貨物船は、アイルランドからイギリスへと大量の食物を運び出し続けたのである。
イギリスからも見放されたアイルランド人には、もはや国外脱出という道しか残されていなかった。大飢饉の期間中から直後にかけて、250万人を超えるアイルランド人が祖国を後にした。移民先は、大部分がアメリカ合衆国。わずか10年間で、アイルランド全人口の30%近くが、祖国を離れたのだ(前掲書p.49〜53より)。

しかし、渡航環境は劣悪だった。大部分が、家畜輸送船の甲板に乗ってまずアイリッシュ海を渡り、イギリスの港町リヴァプールで、大きな輸送船に乗り換えた。が、このリヴァプールでは、騙して渡航費用を奪ったり、女性移民を売春宿へとたぶらかしたり、という悪事が行われることも多々あった。移民の船は、小型で老朽化し、また乗組員や航海士はろくな訓練も受けていなかった。適切な量の飲料水、食料、医療品、あるいは調理設備や衛生設備を欠いたままの航海だった。
大飢饉難民の多くは、乗船前にすでに栄養不良による身体衰弱に悩まされていたが、その上、チフス、赤痢、コレラといった病原菌まで持ち込んだ。そのため、「棺桶船」と異名をとるこのような船に乗り込んだアイルランド人渡航者の死亡率は、40%にも達していた(前掲書p.55〜57より)。

(注1)当時はイギリス王国。
3.「新世界」アメリカ
ようやく辿り着いた「約束の地」アメリカで待ち受けていたのは、カトリックゆえの差別であった。ただ彼らが、「アイリッシュでカトリック」であったために、彼らは差別された。そこに彼らが就ける仕事はなく、彼らが就けたのはたいてい、雇用状態の安定しない、危険な労働環境を常に伴う職種であった。そして賃金の不当の支払い。19世紀中頃の数十年間、大部分のアイルランド人移民労働者の賃金は、日給1ドルを下回っていた。その他に、実際の労賃を下回る価値の現物で支給されたり、まったく支払われないことさえあった。何千というアイリッシュが、過重労働、労働災害、疫病によって早死にした。

アメリカ人はこう考えていた。アイリッシュの貧しさは、怠惰と不道徳、無知と迷信深さの証で、これらすべてが、アイルランドの民族性とカトリックの不可分の特質であると。大部分のアメリカ人が、自らが受け継いだイギリスの家系とプロテスタンティズムに誇りを抱き、カトリック教会そのものが、アメリカの民主的制度に対する不倶戴天の敵であると確信していた。1850年代には、移民排撃主義は"ノウ・ナッシング"、またの名を"ネイティブ・アメリカン"党というかたちで、全国的な政治運動となっていく。南北戦争時、アイリッシュは北部同盟に積極的に関与し、その忠誠心がアイルランド人への恐怖を一時的に和らげはした。それでも、アイルランド人移民とその宗教に対する嫌悪感は、プロテスタント・アメリカンの間に根強く残り続けたのである。何十年間にもわたって、「アイリッシュでありカトリックである」ことはアメリカ社会においては汚名であり、アイリッシュ・アメリカンの中産階級と労働者階級の前に、偏見が障害として立ちはだかった。1890年代には、移民排撃主義者たちが「アメリカ保護協会」を結成し、一時的に勢力を振るった。アイリッシュ・アメリカンのカトリックには投票せず、ともに働かず、友人にもしないと誓う団体であった。第一次世界大戦中は、アイルランド人が古くから抱くイギリスへの嫌悪が、移民たちとその子どもらを、ドイツの味方につけるのではないかと疑われた。1920年代には、復活したクー・クラックス・クラン(反黒人秘密結社)が、ユダヤ人やアフリカ系アメリカンだけでなく、アイリッシュ・カトリックにも襲いかかった(前掲書p.92〜97より)。

4.「約束の地」アメリカ
1960年。アイルランド人移民の子孫であるジョン・F・ケネディ(John F.Kennedy)が、第35代アメリカ合衆国大統領となる。アイリッシュであり、かつまたカトリックであるが故に、差別、虐げられてきたことを考えると、ケネディ大統領の誕生は、アイリッシュ・アメリカンにとって輝かしい栄光となる。彼らはどうやって、暗黒の時代を生き抜けたのであろう。どうやってこの栄光に辿り着いたのであろう。

その大きな転機は、1856年にやってくる。この年、民主党よりジェームズ・ブキャナン(James Buchanan)大統領が誕生する。民主党は、アイリッシュ・カトリック移民にとっては救世主であった。アイルランド移民と民主党を語る上で欠かせないのが、"タマニー・ホール(Tammany Hall)"と呼ばれる政治団体である。このタマニー・ホールは、元は民主党のニューヨーク支部が貧しい移民を支援する拠点としていたが、やがて票集めのため組織犯罪と手を結ぶなど腐敗していってしまった。彼らは、自治体を思いのままに運営するために、慈善事業、雇用機会を見返りに、票を買い集めていった。これは、雇用のないアイリッシュ・アメリカンにとっては願ってもないことであった。タマニー・ホールのような政治団体が用意したのは、警官、消防士、ガス関係の労働者など直接自治体のために働く仕事や、直接というわけではないが、自治体と取引のある建築会社などでの雇用が含まれていた。同時多発テロの時に活躍した消防士の多くがアイルランド系だったのは、この名残なのである。

そして、1856年のジェームズ・ブキャナンの勝利は、ノウ・ナッシング主義の波を阻止したのだ。これ以後、数十年間でアイリッシュ・アメリカンは政治的高位に登っていく。単にタマニー・ホールに雇用機会を与えてもらうだけでなく、自らが政界へと乗り込んでいったのだ。

アイリッシュ・アメリカンが政治面で活躍できたのは、第一に単純に数の問題である。1855年までにはニューヨーク市の人口80万人のうち、アイルランド移民の数はおよそ17万6千人で、選挙権をもつ市民の五分の一以上がアイルランド生まれであったのだ。この頃アメリカの政治が腐敗していたのも、アイリッシュが高位に登っていく好機を与えた。民主党、共和党、アイリッシュ、ネイティブに関わらず、違法の票集めや、敵候補優位の投票所の襲撃など選挙違反が行われ、そうして選挙で勝利を重ねていったのだ。そして、各都市の発展に伴い、ヤンキー達が企業専念のため政界を去ったことも、アイリッシュに味方した(前掲書p.109〜113より)

1900年代初めには、アイリッシュ・アメリカンは経済面でも成功収めるようになる。アイリッシュ・アメリカン男性の35%がホワイトカラーの仕事に就くようになっていた。タマニー・ホールのような政治団体への忠誠が、民間レベルでのヤンキーの偏見を回避し、有利な契約や安定した職を確保させたのである。

ネイティブ・アメリカン(注2)から差別され、虐げられていたが、アイリッシュは何も無抵抗だったわけではない。たとえば労働組合。先にも述べたように彼らは無きに等しいほどの賃金しかもらっていなかった。しかし南北戦争の頃になると、アイリッシュの大工、製鉄行員、煉瓦職人などの熟練工が、職能別組合を先頭に立って組織し、より高い賃金を求めるストライキを指揮するようになったのだ。1880年代には、数千人の熟練・非熟練双方のアイリッシュ・アメリカン労働者が、アイルランド人移民の子弟テレンス・パウダリーに率いられた合衆国最初の全国的労働者組織、労働騎士団に結集している。全国的な労働組合の中においても、アイリッシュの数は群を抜き、またその指導的立場に立っていたのだ。

ここに、カトリック教会のことも忘れてはならないであろう。ジャガイモ飢饉によってアイルランド移民が群れをなして到着したことは、アメリカのカトリック教会を急激に変化させた。アイルランド国内よりも、急速に、また劇的に拡大していったのである。数千の新しい教会が建設され、数万人におよぶ新しい司教と教育・慈善団体のメンバーがアイルランドから送り込まれたり、またはアメリカで育成されたりした。そして20世紀までには、カトリック教会は全国で最大の宗教団体となり、その教会は主にアイリッシュによって支配されていたのだった。

こうして、市政・州政における民主党の内部、労働組合の中、そしてカトリック教会内でのアイリッシュ・アメリカンの影響力は増大していった。そしていよいよ、アイリッシュ・アメリカンが指導的立場に立つ、という栄光の頂点にまで達することになったのだ。それが、ジョン・F・ケネディ大統領の誕生である。ケネディ大統領の誕生は、アイリッシュがアメリカに最終的に適応し、受容されたことの表れである。しかし、アイリッシュ・アメリカンへの偏見・差別が皆無になったわけではなかった。ブキャナン大統領が登場しアイリッシュ・アメリカンの状況が改善の一途を辿った一方で、偏見や差別も依然残されたままであったのだ。

また栄光を手にする一方で、アイリッシュ達が、いつの日にも保ち続けてきたアイルランド人であるというアイデンティティを、自分自身も保ち続け、また子どもや子孫に伝えていくのは困難に感じられるようになっていった。彼らはまさに、アメリカという国に染まりきってしまったのだ。

(注2)現在「ネイティブ・アメリカン」という語は、アメリカ先住民の代用語として使われているが、ここでは19世紀に使われた「アメリカ独立のために戦い、アメリカ建国に手を貸した、生まれながらのアメリカ人」という意味合いで使っている。
5.アイリッシュ・アメリカン、再び
どんな差別を受けようとも、彼らはアイルランド人であるというアイデンティティを消し去ることはなかった。しかし、その彼らが「約束の地」アメリカで受け入れられ、成功していくことによって、皮肉なことにそのアイデンティティは失われていってしまった。もはや彼らは「アメリカ人」になりきってしまったのである。
その彼らが、もう一度自身の「アイルランド人」であるというアイデンティティを再発見したのは何故だったのだろうか。
それは一つに、アメリカから遠く離れた地、ノーザン・アイルランドで続く暴力であろう。ノーザン・アイルランド(以下、北アイルランド)は、アイルランド島の一部でありながらも、アイルランドという国ではなく、イギリスという国の一部になっている。ここでは、多数派でプロテスタント及びこれを支持するイギリス軍と、少数派のカトリックおよびこれを支持するアイルランド共和国軍とが、対立していた。参政権や雇用機会、住居などのカトリックに対する差別に対し不満が高まり、1968年頃からその不満が表面化し、69年にはいよいよ衝突、72年にはイギリス軍の武力鎮圧によってそれは激化してしまった。1993年12月、イギリス・アイルランド両国政府が和平共同宣言を出して、問題解決の一歩を踏み出したが、この祖国で起こる武力対立に、アイリッシュ・アメリカンは、そのアイデンティティを揺さぶられたのだ。
また、非合法である場合も多い新たなアイルランド移民の波が、アメリカに再度押し寄せたことも、再発見につながった。まだアメリカの風にさらされていないアイルランド人が、ニューヨークやボストンなどの大都市で、一時はなくなりかけていたアイルランド人居住区を復興させたのである(前掲書p.220より)。

今や合衆国の各都市では、アイリッシュ・アメリカンの社交クラブ、歴史研究センター、アイルランド伝統音楽やダンス、さらにはゲール語を教える教室までもが現れ、繁盛している。一度は失いかけられたアイルランドへの誇りとあこがれが、また復活し、語り継がれているのだ。

6.混沌の果て
2002年12月。待ちに待った映画がついに公開された。『ギャング・オブ・ニューヨーク』("GANGS OF NEWYORK" 2002年 マーティン・スコセッシ Martin Scorsese アメリカ)である。この物語は、ニューヨークの片隅のギャングの話であるが、そこにはアメリカ生まれの自称"ネイティブス"というギャング、そしてアイルランド移民から構成されたギャングの対立という、ネイティブ・アメリカンとアイリッシュ・アメリカンの対立が鮮明に描かれている。移民の門戸であったニューヨークは、安アパート、酒場、売春宿が密集し、路上ではギャング同士の殺し合いが日常茶飯事といった「混沌」の町であった。アイルランド人たちは、船から下りるなり石を投げられ、そこには職もなく、もちろん住む場所も食べるものさえなかった。だから彼らにとって、3食付きとうたわれた南北戦争の志願兵は最高の仕事であり、多くのアイルランド人が入隊し、無言の帰宅を遂げた。
けれどアイリッシュ・アメリカンは、いつでも最下級のものとして扱われたわけではない。黒人は、アイリッシュよりもさらに過酷な道を歩んでいた。ネイティブ・アメリカンから虐げられたアイリッシュは、今度は彼ら自身が黒人を虐げていたのだ。『ギャング・オブ・ニューヨーク』ではそういった場面も描かれている。

祖国を追放同然の感覚で旅立ったアイルランド人たちが目指したのは、何もアメリカ合衆国だけではなかった。カナダに行った人もいたし、オーストラリアやニュージーランドに辿り着いた人もいた。そういったアイルランド人と、アイリッシュ・アメリカンの違いは何であったのだろうか。はたまた、その違いは存在し得るのだろうか。
私は、存在すると思う。なぜならアイリッシュ・アメリカンほど、新天地での自分達の地位獲得のために、奔走したアイルランド人はいないと思うからだ。ジャガイモ飢饉でアイルランド人がアメリカに到着した時、アメリカという国はまさに混沌としていた。大飢饉移民が到着したのは、まだアメリカという国が生まれ出たばかりの頃であったのだ。その混沌に彼らは飲み込まれ、犠牲となった。それでも彼らは耐えに耐え、やがて栄光を勝ち得るまでになった。その短く、しかし長く重い歴史によって、今なお「アイリッシュ」アメリカンというアイデンティティが、アメリカという地に深く刻み込まれているのである。

7.参考文献
『アイルランドからアメリカへ―700万アイルランド人移民の物語―』
東京創元社 1998年
[著]カービー・ミラー(Kerby Miller), ポール・ワグナー(Paul Wagner) [訳]茂木健
『図説アイルランドの歴史』彩流社 2000年
  [著]リチャード・キレーン(Richard Killeen) [訳]鈴木良平
『THE IRISH IN AMERICA』HYPERION BOOKS, 1997
by Michael Coffey and Terry Golway
『世界史B用語集』山川出版社 1997年版
[編]全国歴史教育研究協議会
映画『ギャング・オブ・ニューヨーク』パンフレット 
松竹株式会社事業部 2002年 [編]高山理樹

8.引用文献
『アイルランドからアメリカへ―700万アイルランド人移民の物語―』
東京創元社 1998年
[著]カービー・ミラー(Kerby Miller), ポール・ワグナー(Paul Wagner) [訳]茂木健


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