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報告者:板垣志穂
発表者:田口奈都美 『国民学派の成立』
西洋音楽史の中で一つの区分とされる「国民学派」が、どのような状況で生まれ、どのような思索や論議を経て民族主義の音楽として決定付けられたのか、フランス革命後の民族主義が高揚した時代に焦点を当てて考察する。
*民族主義の音楽の誕生は、近代国家への過渡期に特徴的な政治的要因とつながりがある。
・ 帝国からの分離・独立(フィンランド、チェコ)
・ 分裂国家から国民国家への統一
・ 君主国家から民主主義国家への移行(ロシア)→失敗
ロシア国民学派
五人組・・・圧倒的支持を受けた。
バラキレフを中心とするアマチュア音楽家集団。リトアニア生まれの工兵士官キュイ、官吏のムソルグスキー、海軍士官リムスキー=コルサコフ、化学者のボロディン、ルビンシテインらの官学派に対抗。
1867年凡スラヴ主義会議への派遣団のために管弦楽演奏会を催す。
国民主義音楽の創造を目指し、グリンカの伝統を継承しながら、民謡の採譜・編曲や9カ国の民俗音楽を研究し、形象の具体的表出を目指して標題音楽に傾倒。1981年ムソグルスキー、87年ボロディンの死後に五人組は自然消滅。
☆ロシア国民学派は歴史的な背景に基づき、当時の政治的な運動と連動して誕生した。またその音楽は、貴族の音楽(西欧的)と民衆の音楽(スラヴ的)の対立の結果でもある。
フィンランド国民学派
フィンランド・・・
1809年 スウェーデンから分離、ロシアに併合
1898年 ニコライ二世の二月宣言→ロシア化政策
<シベリウスと交響詩『フィンランディア』>
→ベルリン留学の際の民族的題材による創作でありナショナリズムを表現した作品として、ヨーロッパ中で演奏された。
コスケンミエニ作詞「フィンランディア賛歌」=フィンランドの準国歌として今日も唄われている。
「カレワラ」・・・文献学者レンロトが収集した個々の叙事詩がひとつの大きな叙事詩の断片であると結論を出し、それに自作の詩を加え、一貫した物語を再構成し「カレワラ」として1835年に出版。民族叙事詩として受け入れられ、民族意識の形成と独立闘争の鼓舞に貢献した。
☆フィンランドにおける国民学派は、ロシアという強敵に対抗する手段として誕生した。自国の文化の再発見は、民族性を明らかにし、民族の意識を強めるためには必要不可欠であった。 ↓
カレワラ
チェコ国民学派
6世紀前にスラヴ族がチェコ・スロヴァキア地方へ移住。7世紀サモ大国、9世紀大モラヴィア帝国を経て14世紀のルクセンブルク王朝のカレル四世の時プラハ全盛期。
19世紀チェコ音楽の2つの方向性
@ 19世紀後半のヨーロッパでもっとも進歩的と考えられていた標題音楽構想に基づいた準ボヘミア音楽(スメタナ)
A 交響曲や室内楽曲といった絶対音楽の分野におけるスラヴ地域全体の民俗音楽を基盤とするフォークロリズムの音楽(ドヴォルザーク)
☆19世紀後半のチェコにおいては、国民音楽は民謡の模倣と引用だけで十分に民族色が出るという考えが一般的だった。チェコ国民音楽を意味する文化的・政治的概念としての「民族的」であることと「進歩的」であることは別々な意味で解釈されていた。
☆20世紀に入ってチェコ国民音楽が近代音楽の意味を担って意識されるようになると、進歩的で近代的なスメタナの音楽が再評価された。
まとめ
歴史的観点から:ウィーン体制と民族の対立。
音楽史の観点から:ロマン主義的・ドイツ的音楽と近代音楽の対立。
今日では、国民学派は国を問わずひとくくりにされ、ヨーロッパ文化の中において、フォークロアを表現手段とした周辺民族による音楽の生起として捉えられてしまいがちである。しかし、実際はそれぞれの歴史的背景と絡み合い、その国の政治思想とも結びついて展開し、それまでは曖昧だった確固たる民族文化を創造したのである。
発表者:板垣志穂
『サウンドスケープ 〜過去から現在に至るまでの音環境の変化〜』
はじめに
現代では昔に比べて、様々な状況において至る所に音が氾濫している。私たちの生活を取り巻く音環境はどのように変化したのか。また、そのような音変化に伴って、人間の聴覚はどのような変化をたどることになったのか。それらを考えながら今回はマリー・シェーファー(Raymond
Murray Schafer,1933~)が提唱したサウンドスケープという思想を取り上げる。
サウンドスケープとは
カナダの作曲家であるマリー・シェーファー(Raymond Murray Schafer,1933~)が現代社会における新たなコンセプトとして提唱した。「個人、あるいは特定の社会がどのように知覚し、理解しているかに強調点の置かれた音の環境」と定義されている。
→自分自身の身体を通じて、日々の生活の中で周囲の世界をどのように感じるのか、それぞれの空間、環境を聴覚を切り口として読み込む考え方である。
→「ランドスケープ」という言葉があるが、この言葉は本来、「五感」で把握されるものであり、そこには聴覚も含まれるはずである。しかし、敢えて「サウンドスケープ」という言葉が生み出されたことは、本来あるべきものがそこに含まれていない、意識されていない、という現代社会の状況があったからであり、その部分をもう一度取り戻すために意識化、すなわち言語化した。
サウンドスケープ誕生の背景
シエーファーは、「西洋近代音楽の枠組みからの解放」を求める音楽家であった。西洋近代音楽は「楽音」のみに規定し、他の様々な環境音を「非楽音」として厳格に区別したが、その「楽音」からあらゆる音へと音楽の素材を拡大させることを求めた。同時に、騒音に対して「騒音公害は人間が注意深く音を聞かなくなったときに生じるのであり、騒音とはわれわれがないがしろにするようになった音である」という姿勢を示した。音楽がコンサートホールという室内に移ってから、関心が内の音へ移り、外の環境音には関心が向けられなくなった。そこで「音楽」を「芸術」の中から日常生活の環境へと拡大させていくことを目指した。
→シェーファーにとって、騒音は音楽と関係ないことではなかった。
記述された音の風景(黒澤明「耳の記憶」から分かる大正時代の音風景)
「私が少年時代に聞いた音は、今の音とはまるっきり違う。先ず、その時分の音は、電気的な音は全く無かった。蓄音機も電気蓄音機ではなかった。すべて、自然に伝わって来る音ばかりだった。その中には、今は、全く聞くことのできない音が沢山ある。それを、思い出すまま並べてみよう。
正午を告げる「ドン」。これは、九段の牛ヶ淵の陸軍の兵営で、毎日、その時間に撃つ大砲の空砲の音である。
火事の時の半鐘の音。火の番の拍子木の音。火の番の火事の場所を告げる時の、太鼓の音とその声。豆腐屋のラッパの音。きせる直しの笛の音。定斎屋の箪笥の鐶の音。風鈴売りの風鈴の音。下駄の歯入れの鼓の音。念仏の鉦。飴やの太鼓。消防車の鐘。獅子舞の太鼓。猿回しの太鼓。お会式の太鼓。しじみ売り。納豆売り。とんがらし売り。金魚売り。竿竹売り。苗売り。夜泣きそば。おでん屋。焼きいも。研ぎ屋。・・・・・・(中略)・・・・・・この、失われた音は、私の少年時代の思い出に欠かせない音である。」
→音は日常生活に全面的に入り込み、その空間を読み込むための重要な役割を果たし、記憶の一部となっている。
これらの音は、今日、私たちが耳にする音とは大きく異なることから、時代の移り変わりと共に音風景は変容していることがわかる。
サウンドスケープデザインの時代へ
サウンドスケープデザイン・・・サウンドスケープという考え方に基づいたデザイン活動。
シェーファーによる定義では・・・サウンドスケープデザインの原理には、特定の音の排除や規制―騒音規制―、新しい音が環境の中に野放図に解き放たれる前にそれらを検討すること、特定の音−標識音−の保存、そして何よりも音を想像力豊かに配慮して、魅力的で刺激的な音環境を未来に向けて創造することが含まれる。サウンドスケープデザインには音環境のモデルを創作することも含まれており、この点において現代音楽の作曲に連続した領域である。
→「デザイン」と「芸術」の双方の領域を、より高い次元で総合しようとする、現代的な意識のひとつの表れ。
「芸術」の世界に閉ざされていた音楽に対して、現実の環境、生活との関係を取り戻そうと呼びかける(デザイン)。
ex)滝廉太郎記念館庭園整備
滝廉太郎が少年時代を過ごした土地、敷地において、建物は当時の家の復元を基本としたが、庭は当時の敷地の一部しか残っていなかったために何らかの設計を必要とした。
作曲家として知られる滝廉太郎がどのような音風景のもとで育ってきたのかを追体験できるような音環境を設計することがコンセプトにおかれた。そのため、旧宅周囲の周辺の音、かつて聞こえていた音について聞き取り調査や文献調査が行われた。
その結果、竹の響き、鳥や動物の鳴き声、溝川の響き、飛石と下駄の音、を意識的に取り入れるよう配慮がしてある。
サウンドスケープデザインのデザインとは、「モノを作ること」ではなく、「関係を作ること」を意味する。つまり、「音をつくること」ではなく、「人間と音の間に新たな関係を結ぶこと」であり、その仕掛けをつくることがデザインである。
人間は、ある対象に何の意味も見出さない場合、その対象を意識せず、存在すら意識しないことがある。サウンドスケープはそれらに対する意識を取り戻すきっかけを提供している。
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