2003年度 春季セメスターペーパー

『辺境のマイノリティとしてのアイルランド人』

田中 雅子

 
     
 

目次

1.はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3

2.「辺境」の「マイノリティ」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3

3.良いアイルランド人と悪いアイルランド人・・・・・・・・・・・・・4

4.アイルランド人がアメリカ人になるまで
  @アイルランドからアメリカへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
  Aジャガイモ飢饉時代・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
  Bアメリカの港に到着したアイルランド人・・・・・・・・・・・・・7
  C女性の活躍・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8

5.おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8

6.参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9

 





1.はじめに
 私がアイルランドに興味を持ったのは、イギリスへの留学がきっかけだった。初めはイギリス国内のことにしか目を向けていなかったのだが、たまたま授業で北アイルランド紛争について触れる機会があり、衝撃を受けたことは記憶に新しい。それまではアイルランドという国の存在すら知らないに等しかったのに、イギリス滞在中の私にはその国がとても近くに感じてしまったのだ。実際に私がアイルランドを訪れることはできなかったが、多くの文献でその美しい風景を見て、さらに惹かれた。
 そういったわけで、これまで私は、音楽や文学といった面からアイルランドを見てきたのだが、今回は今までとは全く違う視点から、辺境のマイノリティであるアイルランド人がどういった問題を抱え、その問題とどのように向き合ってきたか見ていこうと思う。

2.「辺境」の「マイノリティ」
 「辺境」は、まず空間的に捉えられ、「中央」もしくは「都」と対比され、それから遠く離れた土地を意味する。「中央」や「都」は、政治の中心であることが多い故に、またそれに伴って経済と文化の中心でもあることが多い故に、「辺境」は必然的に政治的、経済的、文化的な辺境という内容を含んでしまう。さらに、ヨーロッパ、アメリカ、アジアなどの大陸の場合には、「中央」や「都」は大陸であったり大民族、大宗教団体であったりする。「辺境」は人種や民族、宗教、言語の辺境でもあることになる。当然そのような対比は「差別」を内在している。少なくとも「辺境」という語の歴史的な用法に関しては、そのように言うことができる。
 「マイノリティ」についてもほぼ同じことが確認できる。第一義は数が少ないということだが、相当数を擁護しながらの「少数」であることも多々ある。政治的、経済的、文化的…いずれの場合でも「マジョリティ」に対して弱い立場に立たざるをえないことが多い。多数グループからの迫害、圧迫、あるいは黙殺や無視といった苦難を経験したことのない少数グループは皆無かもしれない。
 従って、「辺境」の「マイノリティ」は、二重の苦難を生きてきた可能性が高い。中には今も二重の苦難に耐えている人々がいることだろう。しかし、一般的な傾向として、世界の国々で、少数グループに配慮する気運が強まりつつあることは指摘できる。彼らの存在を認知し、彼ら独自の文化を尊重して、彼我の文化の交流を図り、さらに豊かな文化を創り出そうとする意志と努力が多方面で見られる。異質であること、独自であることは、少なくとも少数グループの文化に関するかぎり、歴史的な背景と価値を持っている。
3.良いアイルランド人と悪いアイルランド人
 アイリッシュ・ジョークと呼ばれるものがある。アイルランド人に関するジョークのことだが、なかなかドギツイものが多い。たとえば「中古の脳みそが3つ売りに出されました。ひとつはアインシュタインの脳みそ、ひとつの○○の脳みそ、ひとつはアイルランド人の脳みそです。さて、値段が一番高いものはどれでしょう。その答えは、アイルランド人の脳みそ。なぜなら、アイルランド人は頭を使っていないので、新品同様だから。」(○○のところには何が入ってもよい。)なぜアイルランド人なのか、その経緯をたどっていくと「マジョリティ」と「マイノリティ」を結ぶ歪んだ公式が見えてくる。

 アイルランドは現在では独立した国家である。南のアイルランド共和国はそうである。しかし、北アイルランドの方は、イギリスの一部のままであり、独立をめぐっていまだに爆弾テロが続いている。イギリスとアイルランドの対立には長い歴史があり、一朝一夕に解決できるものではない。さきにあげたアイリッシュ・ジョークはイギリスとアイルランドの対立に源を発する根の深いものである。そもそもアイルランドはイギリスによって植民地化されていた。1800年には「連合法」というものが成立し、1801年から法的にも独立した国家ではなくなった。支配者で、人数のうえでは少数のプロテスタントのイギリス人。被支配者で、人数のうえでは多数のカトリックのアイルランド人。この両者の対立がアイルランドの歴史を形づくる基本の枠組みである。この枠組みのなかでイギリスはアイルランド人を自分たちよりも劣ったものとして認識し、描いてきた。イギリス人はアイルランド人を猿として本質化してきた。アイルランド人は猿であり、自らを律することができない、したがって優れた人間であるイギリス人が管理、支配するのがもっとも適切である、という論法によって植民地化を正当化していた。

 以下にアイルランド人を猿として把握する様を検証していく。19世紀に「ペニーコミック週刊誌」と総称される雑誌が登場した。内容的には軽薄で、上品さに欠ける類のものである。「イラスト入り週刊ジャーナル」というある程度の知的水準を維持していたものとは区別され、軽い大衆娯楽用、ミドルクラスないし、アパーミドルクラス用と評価される類の雑誌であった。こういった雑誌にアイルランド人のイラストの猿化現象が見られる。アイルランド人を猿として描くようになった、大きくその方向に進んでいったのは1860年代だと言われている。
1860年代に何が起こったのだろうか。フェニアン主義というものがある。それはアイルランド民族の組織で物理力を用いてイギリスによる支配を打倒しようとするものである。1860年代にこのフェニアン主義が盛りあがっていった。フェニアン主義者たちが警察官を襲ったり、アイルランド各地で決起したりした。それらはすべて鎮圧され、関係者が逮捕されることに終わったが、イギリス人にとって脅威であった。また、劣ったケルト、優れたアングロサクソンという発想が19世紀に初めて生まれたというわけではなく、1860年代に大型の猿、つまり、ゴリラやオランウータンについての情報が科学誌のなかで流通し始めたのである。そして「ペニーコミック週刊誌」を代表する『パンチ』という雑誌でイラストレーターとして活躍したジョン・テニエルがイギリスでのアイルランド人のステレオタイプを人間から猿へと変えていった。
 その一方でイギリスは何世紀にもわたってアイルランドに、イギリスの庇護ないし、所有を必要とする美しい乙女の姿を与えてきた。そして、イギリスがその美しい娘(古き良きアイルランド)を守っているのに、悪いアイルランド人が暴動を起こしたりすることで危ない目にあわせているというようなイラストが描かれたりもした。

 こういった表象、位置をあたえられたアイルランド人が、イギリス支配から逃れるため大挙してアメリカへ渡っていった。だが、アイルランド人として生きていくために故郷を離れたアイルランド人はアメリカでアイルランド人のアイデンティティを実現できたのだろうか。

4.アイルランド人がアメリカ人になるまで
?アイルランドからアメリカへ
 さまざまな国からさまざまな民族がアメリカへ移民していった。イタリアから、ポーランドから、ハンガリーから、ギリシャから、など。さまざまな移民者のなかで、アイルランド人移民にはきわだった特徴がある。それは、母国への帰国率が圧倒的に低いことである。イタリア人は40%以上が結局母国に戻った。ポーランド人とハンガリー人は50%以上が、ギリシャ人は60%以上が戻った。しかし、アイルランド人の場合は、母国に戻る者の率は10%を下回っている。アイルランド人にとってアメリカは快適な地であったのだろうか。なるほど、18、19世紀のアイルランド人の夢想のなかにアメリカの姿を、溝のなかにまで金と銀が詰まっている地だと捉える見方、約束の地カナーンだと捉える見方があったのも事実である。だが事実は決して快適な黄金郷などではなかった。アメリカに渡ったアイルランド人を待ち受けていたのは、不安定で過酷な労働だった。それでもアイルランド人はアメリカに渡り続け、帰国しなかった。なぜだろう。

 アイルランドからアメリカに渡った者の総数は700万人に達すると推定されている。現代アメリカでは、おおよそ4000万人以上の者が、アイルランド人が自分の祖先だと思っている。また、アイルランドの総人口は500万人ほどであるが、そのほとんど全員がアメリカに親戚をもっているとされる。これほどの大規模な移民、移動は、民族大移動と呼ぶに値するだろう。

17世紀の間に5万人から10万人がアメリカに渡ったとされている。彼らは召使として使われたようである。ついで18世紀になると、50万人規模の移民がうまれた。ペンシルヴァニアやカロライナなどの土地を求めて渡っていった。アメリカ革命の前後に渡った者たちの多くは、アイルランド北部のアルスター地方のプロテスタント=スコットランド系アイルランド人であった。革命後もスコットランド系アイルランド人の移民は続いたが、19世紀になると事態は大きく変わっていく。アイルランド全域からカトリック教徒が大量にアメリカへと渡り始めたのである。移民先には、オーストラリアやニュージーランドや南アメリカも含まれていたが、なんといっても中心は北アメリカだった。1840年代の大飢饉以前の半世紀で100万人ほどのアイルランド人が北アメリカに渡ったとされているが、そのうち半数がカトリックだった。そして大飢饉後、現在に至るまでに、さらに550万人が移民したが、その大多数はカトリックだった。大飢饉以前の1841年のアイルランドの人口は850万人だったが、1926年には425万人にまで激減した。

Aジャガイモ飢饉時代
 アイルランドでも牛が飼育されていたし、穀物も作られていたが、それらはイギリスへ送られるものだった。アイルランドの農民が自分で食べるものといえばジャガイモであった。ジャガイモは肥沃でない土地でも育つうえに、手軽に食べられるという利点を備えていた。ジャガイモなしではアイルランド人の生活は成り立たなかった。ところが、1845年から5年連続してジャガイモの凶作が見舞った。それ以前にもジャガイモが不作の年はあったが、このときのそれとは規模が違った。しかも不作が5年も連続することで、農民に破壊的な打撃をあたえた。この時期の死者は110万人から150万人とも言われている。

 飢饉対策はどうだったのだろうか。手が打たれなかったわけではない。しかし、ウェストミンスターがアイルランドを支配する、イギリス在住の不在地主がアイルランドを支配するという基本的枠組みのなかで、アイルランドは捨てられたというのが正しい。アメリカからアイルランドへトウモロコシが輸出されたが、アイルランドで生産された牛や穀物はイギリスに送られ続けた。豊饒のなかの飢餓とはこの事態を指している。この時代、1845年から1855年の間に、なんと200万人以上のアイルランド人が海外へ渡った。それは大飢饉以前の人口のおよそ4分の1にあたる数である。通常は春や初夏に行われる移民もこの時代には冬にも決行されたが、移民者が乗った船は「棺桶船」と呼ばれるほど劣悪なものだった。衛生状態は悪く、食べ物にも事欠くようなありさまであり、船中で羅患し、死ぬこともよくあったし、船そのものが沈むこともあった。「ブラック47」と呼ばれる1847年で言えば、アメリカへの渡航で死亡した人数は8000人から9000人とも言われている。カナダの場合は2万人と言われている。
 
Bアメリカの港に到着したアイルランド人
 最下層の者たちだけが移民したわけではないが、それでもアメリカ社会の底辺で働くことが多かった。アメリカ人の目にはアイルランド人はまともな人間ではなかった。黒人奴隷と同程度、いや黒人奴隷以下に扱われた記録さえもが残っている。具体的な職種としては、男性なら工場労働者や炭坑夫であり、女性なら工場労働者やメードであった。アメリカのアイルランド移民の場合、女性が有力だったのは注目に値する。彼女たちは他の誰もが就こうとしないメードとして重用された。また、南北戦争の時にはアイルランド人が北軍の兵士として15万人参加したのも注目に値する。いや、それでも職があるだけまだいい。求人広告に「アイルランド人は応募するに及ばず」(No Irish Need Apply)という文句が掲載されることもあった。その言葉は省略されてNINAとだけ表記されても通じるまでになった。1850年代にアイルランド人排斥を目する排外主義が全国的なうねりになっていった。ノーナッシング主義の台頭である。

 貧困に打ちのめされ、偏見に曝され、アメリカ社会に同化できない、あるいはしようとしないアイルランド人たちは、自分たちの圏内で生きていこうとした。自分が住んでいる地域のパブ(サルーン)、同質の仕事仲間、丸ごとアメリカに移転してきた村人集団などがまず手近にあるものだった。しかし、それ以上に大きな役割を果たしたカトリックのアイルランド系アメリカ人の組織が3つあった。民主党、カトリック教会、フィニアン運動である。
 アイルランド人が民主党に票を入れるかわりに、民主党がアイルランド人に慈悲をあたえ、仕事をあたえ、党内部のポストをあたえ、差別的立法を阻止し、アイルランド人のアイデンティティを認めた。
 カトリック教会は移民者が教会に来るようにはかり、彼らの信仰を強化、現代化し、プロテスタント側からの軽蔑や改宗の誘いから守った。アイルランド語など、アイルランド人であることの徴がアメリカで消えていくなか、カトリックであることが第一のアイルランド系アメリカ人のアイデンティティとなる。しかし、アイルランド人でありカトリックであることと、アメリカ人になり健全な市民になることを両立しないとアメリカ人から攻撃を受ける。そこでカトリック教会はアメリカへの愛国精神、ブルジョア的価値、上昇志向を推奨した。
 フィニアン運動はアイルランド系アメリカ人の民族主義であり、これはアメリカへの同化の手立てであったとも考えられている。

C女性の活躍
 さきほども述べたが、アイルランド移民の大きな特徴として女性が大きな役割を果たしたという事実がある。飢饉移民の第一世代の女性は住み込みのメードとして働き、稼いだお金をもとに家を買い、本人なりその子供の世代が教師などホワイトカラーになっていった、というのが基本的枠組みである。アイルランド移民の半数以上は女性だった。しかも独立した女性としての移民である。
 女性の数が多いのには理由があった。アイルランドでは、女性が結婚するのには高額の結婚持参金が必要だったため、貧困時代に結婚の見込みがなかったことや、晩婚であったために子供が大きくなるまえに夫が死亡することが少なくなかったことがあげられる。住み込みのメードはきつい仕事であるし、独身であることが前提とされたため、アメリカ人はもちろん、アイルランド人以外の移民女性もメードになろうとしなかった。だから、男性ほど差別を受けなかった。しかし、彼女たちも女性の仕事のヒエラルキーの最底辺で働いていた。それでも、アイルランドに留まっていた場合の状況に比べれば、将来的なことも考えると、アメリカの生活のほうが上だった。メードをすることで、直接アメリカ人家庭を経験し、アメリカへの同化が進んだということと、家庭より仕事を選んだことで、社会的上昇のペースが速くなった。その結果、1920年代までには、アイルランド人女性はポスト獲得でアメリカ生まれの白人を上回るようになった。

5.おわりに
 アイルランドに対する偏見や、アメリカへの移民について見てきたわけだが、私が何より驚いたのはアイルランドの女性が強いということである。例えば、アイルランドは男女が住み分けている社会であったし、「かかあ天下」像が流通しており、家庭内の決定権を握っていたのは女性であった。また19世紀には若い女性が家の外で仕事をするのが珍しくなく、法的には夫の姓を名乗っても、実際には旧姓で通すことが常態化していた。だからこそ、女性が働くことに違和感がなく、第一世代はメード市場で圧倒的な強みを獲得したのであるし、第二世代は教師職、看護婦職で同様の強みを獲得したのであろう。それは、アイルランド人女性のアイデンティティと言えるものかもしれないと思った。
 今回は今までとは全く違った視点からアイルランドという国を見て、とても興味深かった。卒論のテーマはまだ決まっていないが、アイルランドに関するこれまでの研究をいかし、声の文化と文字の文化についてまとめるかたちでやっていけたらと思う。

6.参考文献
・『辺境のマイノリティ―少数グループの生き方―』
寺谷弘壬、宋 連玉、夏目博明、九頭見一士 共著 英宝社 2002
・『図説アイルランドの歴史』 リチャード・キレーン著 鈴木良平訳     彩流社 2000
・『地球の歩き方 アイルランド』ダイヤモンド・ビッグ社 2003



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