1. 宗教とは何か
宗教という言葉、英語で言うregionは元々はラテン語のreligioからきています。そこで、言語学的に見ると大きく見て二つの定義が挙げられます。
・ BC1c ローマの哲学者、マルクス・テュリウス・キケロによる、re「再び」-gion「読む」ということより、「厳粛に執行される勤行、礼拝、儀式」
・ 3〜4c キリスト教哲学者、カエキリウス・フィルミアヌス・ラクタンティウスによる、「神とむすびつけるもの」
これら二つのことからもわかるように、宗教とは神に対する人間の関係のことになります。そしてこの関係は、実在的・超越的関係であり、単に認識論的関係にとどまらず、存在論的関係でもあるわけです。けれど実際は宗教とは何かという定義は、定義する人間の数ほどもあると言われているわけで、そうひと口で言い表せるものではありません。しかし紀元前からこのような宗教に関する説があったように、宗教は古来より人間を魅せてやまないものであったのです。
2.ユダヤ教の歴史
2−1.紀元前(キリスト誕生以前)
BC2000年頃、遊牧民のアブラハムが、彼と彼の子孫にカナンを与えるという神のお告げ、約束を受け、カナン(現パレスチナ)へ移住します。そこで彼らはしばらくは平和に暮らすのですが、アブラハムの孫、ヤコブの時代に飢饉が訪れ人々はエジプトへ移住します。しかしそこで、かれらはエジプト人の奴隷にされてしまうのです。
その後エジプトでの生活の中で、モーゼが神からお告げを受けます。それは、「おまえたちユダヤ民族に乳と蜜の流れる地を与える。だからモーゼ、お前は民族を指導してエジプトを脱出せよ」というものでした。そこでモーゼが指導者となり、現イスラエルへと再び移住するのです。この時より、イスラエルは神から与えられた土地、という信仰がユダヤ民族の中に生まれます。
BC1000年、ユダヤ民族はイスラエル王国を建設します。世界史の授業で既に学んだように、2代目ダビデ王、3代目ソロモン王の時代にこの王国は繁栄します。しかし、ソロモン王の死後、北はイスラエル王国、南はユダ王国と分割されてしまいます。北のイスラエル王国はのちにアッシリアによって滅ぼされ、南のユダ王国は新バビロニアに攻められ世にも有名な「バビロン捕囚」を受けることになります。これにより、この後2000年以上ユダヤ人たちは自分たちの国を持たない離散の民となります。
2−2.イエスの誕生
0年、ローマ支配の時代に、イスラエルのナゼレ(現在のエルサレムより少し北に位置する)という地でイエスが誕生しました。彼はのちに、「自分は神の子であり、まもなく全ての人類が救われる」「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」といった教えをすることになります。
さて、ユダヤ人たちは始めはキリストはメシア(救世主)、神であると同時に神の使いであり民族の苦難を救ってくれるもの、だと思っていました。それまで何度も国を失っていたがユダヤ思想を失わずにいたのは、いつかメシアが現れて自分たちの民族を征服者から解放し、独自国家を造ってくれるということを期待し、信じていたからです。しかし実際には、イエスは先ほども述べた教えの通り、あまりにユダヤ人の期待とは違う存在でありました。そうしてイエスは偽メシアだということになり、処刑台へとユダヤ人が追いやったのです。これが現在にも至るキリスト教とユダヤ教との対立の原点になります。
しかし、ユダヤ人がイエスを偽者だと言い張ったのにも他にもわけがあります。一つは、イエスは自らを「神の子」と名乗っているが、ユダヤ教は唯一神教であるため、もし仮にイエスが神だったとするのなら、神が同時に2人存在してしまいます。そうなっては困るということで、イエスは結局はラビ(ユダヤ教の聖職者。キリスト教でいう、神父ではなくむしろ牧師)にすぎなかったというのです。
3.ユダヤ教の特徴
3−1.選民思想
ユダヤ人(ユダヤ教徒)となるためには、二つの方法があります。一つは、ユダヤ人の母から生まれたもの。二つ目は、ラビのもとで改宗したものです。この二つの方法はイスラエルの帰還法に書かれています。このようなことからユダヤ教の信者は少なく、1300万人程度しかいません。そのうちの581万人がアメリカに、366万人がイスラエルに住んでいるといわれています。しかしながら、数々の歴史の中でユダヤ人は自分たちの国を持てなかったために、各々の国で信仰を守ってきたため非常に民族意識が高いのも特徴の一つです。この民族意識を背景に、ユダヤ人はどこの国でも国民とはなりきれず不信感を持たれることになります。これが、ユダヤ人が迫害される原因の一つにもなっていると思われます。
3−2.経典
ユダヤ教の経典は大きく二つあります。一つはユダヤ教独自の経典、タルムードと呼ばれるものです。これはBC2c〜2cにわたって書かれたラビによる口伝律法で、この中に安息日や断食などのユダヤ教独特の教えがあります。もう一つは言わずと知れた旧約聖書で、三大宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)に共通の経典になります。これにはノアの箱舟の話や、出エジプトなどの神と人間との約束を記したものが書かれています。
3−3.神
ユダヤ教の神は唯一神、ヤハウェです。それ以外に神は存在しません。そこで、神の子どもとされているイエスを信じているキリスト教とは対立するわけです。またおもしろいところが、三大宗教では経典の旧約聖書が共通であるという事実が示すとおり、三大宗教の神は同じものなのです。それぞれの宗教ごとに呼び名は異なりますが、その神が世界を、そして人間を創造したという意味ではやはり同一人物に他ならないのです。
3−4.戒律主義
ユダヤ教と言えば、律法に忠実な戒律宗教としても有名です。彼らはとても厳しく神との約束を守ります。それは、神の命じた律法を守る代償として、ユダヤ人は繁栄と幸福を保証されているからです。ですから、ユダヤ人は必死に律法を守るのです。
3−5.聖地
聖地は、イスラエルにあるエルサレムになります。ここは三大宗教が共に同一の地になります。ですから、今になっても様々な人間同士の対立がやみません。ここはユダヤ人にとって、かつてのイスラエル王国時代にソロモン王により造られた、神がモーゼに与えた律法の石版を収めるために造られた「契約の櫃」が安置された神殿のあった場所であり、その神殿の唯一残っている部分、神殿の周りにそびえる壁、現在では「嘆きの壁」と呼ばれるものなのです。イスラム教にとっては、ここは預言者ムハンマドが、大天使ガブリエルが降り立った地として聖地にされています。また、キリスト教においてもイエスが十字架に貼り付けにされたゴルゴだの丘はエルサレムにあるとされているため、キリスト教の聖地でもあるわけです。このように、ユダヤ教の聖地は三大宗教共通の聖地でもあるわけです。ですから、現在でもそういった問題が頻繁にやりとりされているわけです。
4.ホロコースト
4−1.ホロコーストとは
ホロコーストという言葉の元の意味は、ユダヤ教の祭に使われる言葉で「犠牲を捧げる」というものでしたが、それが今では第二次世界大戦中に行われたナチス・ドイツのユダヤ人大虐殺を指す言葉となりました。
4−2.なぜホロコーストが行われたのか
まず、これには表と裏の顔があることを説明しなくてはなりません。では始めに、ナチス・ドイツがホロコーストを行った表向きの理由ですが、大義名分としてはアーリア人種としてのゲルマン民族の純潔を守るためです。つまり、ドイツ国民を優秀な人材のみにしたかったわけです。しかし実際には、優秀なドイツ人のみにするために、同じゲルマン民族の障害者もまた別施設へと連行していました。ですから、このドイツの表向きの方針にも様々な矛盾点が生じていたわけです。
さて、裏の理由ですがこれには大きくわけて4つあります。一つ目は、キリストを裏切ったユダヤ民族に対する差別意識です。先のユダヤ教の歴史の中で触れた通り、イエスを処刑台へと追いやったのはキリスト教の中ではユダヤ人とされています。そのため、キリスト教徒の多いヨーロッパでは特にユダヤ人に対する差別が存在していたわけです。
二つ目は、自分たちの宗教を守り国民としての義務は果たすが同化しないユダヤ人への違和感です。ユダヤ教は戒律宗教だということは先ほども述べたとおりですが、そのため安息日などは厳しく守らなければなりませんでした。その他にも食べていいもの悪いものなどの決まりもあります。そうしたことから、
国民としての義務、税金や国の決めた法律には従ってはいるものの、義務ではない部分では周りの世界、コミュニティーから浮いた存在となってしまったようです。
三つめは、第二次世界大戦中にほとんどの人は貧しさを耐えていたにも関わらず、金融業に携わっていたので裕福になった人の多いユダヤ人への妬みです。1078年にローマ教皇が「ユダヤ人公職追放令」を出したためにユダヤ人は職を失ってしまい、キリスト教が不浄のものと考えていた金融業になった人が多くいました。そのため、金融業会は自動的にユダヤ人のものとなり、その結果この大戦で裕福になった人はみんなユダヤ人だったわけです。そういうわけで、多くのヨーロッパの人たちはユダヤ人を嫌うようになりました。かの有名なシェイクスピアも例外ではなく、『ヴェニスの商人』では、ユダヤ人は強欲な金貸しとしてシャイロックが登場することもその一例といえるでしょう。
四つ目は、ヒトラーはオーストリア出身の、こちこちのカトリック教徒であったことです。大戦当時はドイツにいたヒトラーですが、生まれも育ちもオーストリアで、熱心なカトリック教徒の家に育ちました。そのため、ホロコーストにおいてその影響が大きく現れているものと推察されます。
4−3.ホロコーストに対する各国の反応とその結果
上で述べたようなことを背景に、ホロコーストの悲劇は起こってしまいました。そしてドイツがホロコーストを行った際にヨーロッパ各国はどこも傍観し、それをナチスは自分たちに都合の良いように「無言の承認」として受け取ったのです。無言であるだけでなく、どこの国も移民を許しませんでした。責任のなすり付け合いばかりで、何も実行しません。最も早くに行動を起こした国は、ナチスドイツと敵対関係にあったアメリカでした。しかしそれすらも、かなり遅い対応でした。他のヨーロッパ諸国も、表向きは「自分の国籍を持っている、もしくは自分の国に家族や親族がいる場合のみ、ユダヤ人の移民を受け入れる」という態度をとっていましたが、それに該当するユダヤ人などほとんどいないため、その対応策は実質上あまり機能していませんでした。そうした結果、第二次世界大戦では600万人ものユダヤ人が亡くなったのです。これは、当時約1900万人いたユダヤ人総人口の三分の一でした。
5.ユダヤ教に対するローマ教皇の回答
5−1.二つの回答
今までにローマ教皇は2回、神に対して公の立場から懺悔をする、という形でユダヤ教に回答を出しています。
始めは、1964年のことです。「ユダヤ教=キリスト殺し」説の真犯人はローマ帝国であったことを認めました。今までずっと、根深いところでユダヤ教徒キリスト教を対立させてきた原因、ユダヤ教徒がイエスを磔刑にしたというのはユダヤ教離れを促進させるためのネガティブ・キャンペーンの一種であったというのです。世界史でも習ったとおり、キリスト教が正式にヨーロッパ地域で認められるようになるのはもう少し後になります。それまでキリスト教はローマ帝国から弾圧を受けているわけですから、裏でローマ帝国がイエスが処刑されるように手配していた、という話のほうが筋が通っているというものです。
イエスは万人平等、という考え方を広めていたため、ローマ帝国にとっては非常に邪魔な、厄介な存在だったのです。
次は本当につい最近の出来事になります。2000年の3月のことです。現在のローマ教皇、ヨハネ・パウロ2世がホロコーストの際のカトリックの傍観に対してヒューマニズムではなかったと懺悔しました。二次大戦中、キリスト教徒が多く住んでいるがためにヨーロッパ諸国ではユダヤ人の移民受け入れを拒否していたふしがありました。そのときに、キリスト教の教えにのっとるのであればユダヤ教徒をどこの国も受け入れなかった事態になった時に、キリスト教の中心として真っ先にローマ教皇はその事態の収拾をつけなければならなかったにも関わらず、ユダヤ人たちのイエス殺しの罪のためにユダヤ教徒を助けることを拒否し、結果多くのユダヤ人を見殺しにしてしまいました。これは、人間として恥ずべき行為であったと、その行為を恥じたわけですね。
5−2.なぜ二回とも懺悔であって、ユダヤ教に謝罪できないのか
それは、謝ってしまうと聖書の間違いを公認することになってしまうからです。また、聖書の中で、イエス・キリストを殺したのはユダヤ人であり、ユダヤ人はその報いを受けるであろうと書かれています。また、ユダヤ人はイエスを十字架にはりつけにする時に、キリスト教徒からたくさんの非難を浴びせらるとこう言いました。「その人(イエスのこと)の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」そう明言したというのです。それを当時のローマ帝国のユダヤ総督、ピラトは聞いたというのです。これを根拠に、そうユダヤ人は言ったのだから、その言葉通りに今生きているユダヤ人たちにこのような不幸が訪れようとも、自分たちが過去にそれを覚悟した上でイエスを殺したわけなのだから、同情する余地はない、とも主張しています。こうしたわけで、キリスト教の立場としてはいくら悪いことをしたと思っていても、決してローマ教皇は謝罪はできないのでした。しかし、現在さきほどの二つの懺悔をしただけでも、以前よりも少しずつ和解への道はひらけていっていると言えると思います。
文献表
福岡政行監修 『21世紀 世界の民族紛争』 (主婦と生活社)
ひろさちや監修 『世界の宗教と民族紛争』 (主婦と生活社) 1996年
井沢元彦 『世界の「宗教と戦争」講座』 (徳間書店) 2001年
『ニュービジュアル版 新詳世界史図説』 (浜島書店) 1993年
岸英司編集 『宗教の人間学』 (世界思想社) 1994年
吉見崇一 『ユダヤ教小事典』 (LITHON) 1997年
八木あき子 『5千万人のヒトラーがいた』 (文藝春秋) 1983年
小田島雄志訳 ウィリアム・シェイクスピア著 『ヴェニスの商人』 (白水Uブックス) 1983年
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